再録、無明について1 2018年11月04日 | 仏教 私たち衆生は何時の頃からか、「ものを二つに見る癖」が付いてしまいました。 これを「無明(むみょう)」といっています。 別の言葉で言えば、自分というものを認めるが為にそれが無明と成るのです。 全て無明が隔てを作っているので、それがそれと分からないのです。 しかし、よく考えてみると「無明、無明」といっても「無明とすべき塊」は 何処にも何にも無いのではないでしょうか。 « 涅槃寂静 | トップ | 再録、無明について2 »
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