来年のためにサイト・コンセプトの調整をしなければと思っていたところ、書店でちくま新書、梅田望夫著「ウェブ時代をゆく」を見つけ購入した。
書店で読んでいた時は、そこにwebの未来が見えて、方向性の確認ができ希望さへ持てたのだが、家に帰ってじっくり読み通すと、その根底に空想的とも言えるオプティミズムがあると感じてしまった。
サイトをスタートさせた時は、私も同じような夢に生きていたが、早くも6ヶ月で希望は崩壊し始めて、1年後には現実の前に、私の楽観は完全に息の根を止められてしまった。
その後新たなサイト・コンセプト構築を繰り返し、自分自身をなだめすかしたり、叱咤激励したりしながらなんとか、来年5年目を迎えるところまで息を繋いできた。
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英国圏ネット空間の知は「次の10年」で圧倒的に充実していくだろう。このまま10年が経過すると、英語圏の「学習の高速道路」は著しく充実し、英語圏に生まれ育つことの優位性がこれまで以上に増幅されてしまうのではないかという危惧すら抱く。(P.172からの引用)
なるほど梅田氏のオプティミズムは英語圏でこそ持ちえたものなのだ。
ネット上の知の可能性を過小評価し何もしなければ、10年後の英語圏ネット空間と日本語圏ネット空間の間には、取り返しがつかないほどの格差が広がっていることだろう。(P.173からの引用)
それならよくわかる。「人類の公共財産たる知を広く誰にも利用可能にすることは善なのだ」という「パブリックな意識」など、日本には育っていないし、情報ハイウェイというインフラが整備されたとしても、意識としての車は発想のガス欠つ状態のままだ。
この辺の日本の現実をよく見据えた上で、方向性を考えなければならない。
唯一力を与えられたのは、次のことだ。
ネットが一般人にも可能にしたひとつの現実は何かと言うと「好きなことへの没頭」だ。それはネットが可能にしている唯一のことだと私も思う。梅田氏は今までどちらかと言うと否定されてきた「好きなことに没頭する」ことを「人としての幸福」と位置付けられた。救われた思いがした。
ただ,未知な方向性を切り開くリーダーになるためには、単なる没頭ではなく「人生をうずめる」没頭を例として挙げておられる。人生をうずめる没頭!!確かにそうだ。無から新たに知を生むためには「人生をうずめる程の没頭」でなければならないとしても、それは当然だろう。
しかし「その覚悟はあるか?」と問われて「イエス」と言える人は、おそらくいないだろう。だが、ここで言う「人生をうずめる」は覚悟ではなく「楽しさの帰結」なのだ。
私はどうしてもまず覚悟が、必要条件だと思ってしまうのだが、どこかで論理と想像力と体力と経済力を欠いているためだろう。
梅田氏のアドヴァイスの中で一番グサリときたのは「ウェブ・リテラシーを持て」ということだ。ウェブ・リテラシーとは(P.209)
(1)ネットの世界がどういう仕組みで動いているかの原理は相当詳しく徹底的に理解している。
(2)ウェブで何かを表現したいと思ったらすぐにそれができるくらいまでのサイト構築能力を身に付けている(ブログ・サービスを使って文を書くとか、そういうことではなくて)・・・など等。
ウェブ・リテラシーに精通していなければ、サイト構築の斬新なアイデアがまず浮かばない。サイトの独自性を出すためにも高度なウェブ・リテラシーの必要を常に感じている。
すべて独学するとしても膨大な時間と体力と視力と知力、そして経済力が必要となる。
しかし、これだけは四の五の言っておれない。その先に待ち受ける知のフロンティアはほとんど無限なのだから。
梅田氏の推測によると、日本社会が大きく変わったと過半数の人が感じる時期は「2015年から2020年あたり」なのだそうだ。
そのときIT社会はどんな未来の衣服をまとって登場するのだろうか。政治や経済の行き詰まりをも凌駕するシステムを完成させるのだろうか。
なるほど、梅田氏のようなオプティミズムに立脚しなければ、輝く未来にはたどり着けない。信じよう。そして踏み出そう。web時代は疾うの昔に既に始まっているのだから。