日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

長髄彦 2

2012年03月18日 | 日記

 

A.大槌町・黒澤氏系図

ここに、昭和41年に編纂された『大槌町史 上巻』 (編纂:大槌町史編纂委員会 発行:

岩手県大槌町役場)があります。

この町史に、大槌町の黒澤熊太郎氏が蔵されていた黒澤氏系図(以下、系図と略記)が載っ

ています。

歴史好きの方は御存じのことと思いますが、かって奥州の地で源頼義と安倍頼良(頼義・頼

時とも言います)が戦った前九年の合戦というのがありました。

敗れた安倍頼良には、系図(藤崎、安東〈安藤〉、黒澤)によって異なりますが、貞任(さ

だとう)・宗任(むねとう)・正任(まさとう)・重任(しげとう)・家任(いえとう)・

則任(のりとう=行任)があり、敗死した貞任の子・高星(たかほし)から津軽藤崎の安東

氏が生まれ、黒澤氏は和賀郡黒澤尻柵主(さくしゅ)であった正任の子・家任から出ました。

大槌町・大ヶ口からは古代製鉄の跡と思われる鉄滓が発見されています。

大槌の隣町は製鉄の町・釜石であり、奥州安倍氏は近辺の鉄を支配していたものと思われま

す。

B.奥州安倍氏の出自

前九年の合戦で源頼義と戦った安倍頼良の出自は、前回書きました長髄彦(ながすねひこ)

の兄君・安日王(やすひおおきみ)まで遡(さかのぼ)ります。

安日王は津軽・安東浦等(あとら)に放逐され、後の安東氏はこの地名を負います。

C.実在された神武天皇

神武天皇は長髄彦と戦われました。

これは『記・紀』(『古事記』と『日本書紀』)の記すところであり、『記・紀』を読む者

には、これを史実(記録)と読むか、神話(物語)と読むかの理解は別として、抗(あらが)

いようのない記述としてあることは、衆目の一致する所であります。

『記・紀』は、安日王の存在と北海の浜へ放逐されたことを記しません。

しかしその末裔(まつえい)達が、自らの出自を語り継ぎ、その系図を守って来ました。

神武天皇が実在されたことは、天皇が戦われた長髄彦の兄君・安日王の後裔が、当事者しか

知り得ない連綿と続く系図を持って今の世に存在することが、それを証しています。

D.系図の記述

1.系図は、安日王には弟君の長髄彦と更にその次に妹君の三炊屋姫(みかしやひめ)があ

ったことを記します。

長髄彦については「神武帝之ヲ殺ス」と注記し、三炊屋姫については、「亦(また)の名ヲ

髄姫(ながすねひめ)、亦、鳥見屋姫(とみやひめ)、櫛玉饒速日命(くしたまにぎはや

ひのみこと)の妃、可美真手命(うましまでのみこと)ノ母」と注記します。

長髄彦と三炊屋姫の記述は『記・紀』と一致します。

2.系図は、安日王・長髄彦・三炊屋姫の父君を武渟河別命(たけぬかわわけのみこと)と

し、武渟河別命の注記に、「崇神帝ノ時、将軍ヲ四道二遣ワシ、卯綬ヲ賜テ東海将軍ト為ル、

又、安倍将軍と称ス」と書きます。

武渟河別命が、安日王・長髄彦・三炊屋姫の父君かどうかはしばらく置きますが、崇神朝(

すじんちょう)において、四道を司る四将軍の内の一将であったことは、『記・紀』と一致

します。

3.更に系図は、武渟河別命の父君を大彦命(おおひこのみこと)とし、大彦命の父君を孝

元天皇とします。即ち、孝元天皇が、安日王と長髄彦の祖となります。

この真偽は後で考えます。

4.次に、大彦命と孝元天皇に添えられている注記を紹介して置きます。

大彦命: 「母ハ鬱色譴(うししこめ)ノ皇后、崇神帝ノ朝二北陸ノ将軍ト為ル也、之(こ

れ)ヲ安倍将軍ト謂(い)フ。時二武垣安彦(たけはこやすひこ)叛(そむ)クヲ討テ功

有リ」。

孝元天皇: 「人王第八大日本根子彦国牽尊(じんのうだいはちい、やまとねこひこくに

くるのみこと)、高霊帝太子、母ハ細媛(ほそひめ)ノ命、磯城(しき)県主(あがたぬ

し)大目之女(おおめのむすめ)。

E.『記・紀』の記す皇統

初  代: 神武天皇・神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)

第二代: 綏靖(すいぜい)天皇・神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)

第三代: 安寧(あんねい)天皇・磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)

第四代: 懿徳(いとく)天皇・大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)

第五代: 考昭(こうしょう)天皇・観松彦香殖稲天皇(みまつひこかゑしねのすめらみこと)

第六代: 考安(こうあん)天皇・日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)

第七代: 考霊(こうれい)天皇・大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)

第八代: 孝元(こうげん)天皇・ 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)

第九代: 開化(かいか)天皇・稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)

第十代: 崇神(すうじん)天皇・御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにゑのすめらみこと)

F.系図の真偽

1.真の事実

a. 神武天皇が長髄彦と戦われたこと。

b.神武天皇の前に饒速日命(にぎはやひのみこと)が大和に入られていたこと。

c.饒速日命に長髄彦は自分の妹・三炊屋姫(みかしやひめ)を嫁がせて、御子・可美真手

  命(うましまでのみこと)があったこと。

d.孝元天皇の御子の一人に、大和安倍の祖である大彦命があること。

e.孝元天皇の妃と皇子を、『古事記』は次のように記します。

  そしてこれが真の事実であろうと思われます。
  

 「この天皇、穂積(ほづみ)臣等の祖、内色許男命(うつしこをのみこと)の妹(いも)

    内色許賣命(うつしこめのみこと)を娶して、生みませる御子、大毘古命(大彦命)、次

  に少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)、若倭(日本)根子日子大毘毘

  命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)(=開化天皇)、また内色許男命の女(むす

  め)、伊迦賀色許賣命(いかがしこめのみこと)を娶して、生みませる御子、比古布都押

  之信命(ひこふつおしのまことのみこと)、また河内の青玉の女、名は波邇夜須毘賣(は

  にやすびめ)を娶して生みませる御子、建波邇夜須毘古命(たけはにやすびこのみこと)、

  併せて五柱なり」。


2.比定される事実(その1) 

a.孝元天皇が饒速日命(にぎはやひのみこと)であること。

b.開化天皇が可美真手命であること。

c.長髄彦は、『古事記』が記す穂積臣らの祖である内色許男命であること。

d.神武天皇の東征と女王国からの数次の東征が行われる以前に、大和には長髄彦の王国が

  あったこと。(後記:そしてこの王国は、神武天皇が東征でこの地に入られた時には、

  既に饒速日命に従う邦(くに)であったことです。2019.8.24)

e.長髄彦は、『三国志・魏志』・『後漢書』が女王国について伝える所の「狗奴国(くぬ

  こく)の男王」に比定し得ること。(訂正:この『三国志・魏志』・『後漢書』が書く

  「狗奴国」の男王は、饒速日命です。神武天皇より早く饒速日命は大和に入られ、長髄

   彦の妹君である三炊屋姫を娶(めと)られ、御子の可美真手命をもうけられていました。

   2019.8.24)

3.神武天皇の血脈と比定される事実(その2)

a.神武天皇の血脈 (ア・イ・ウ・エ・オの文字を振っている御方が皇統を形成された方

々です)。

ア.素戔烏尊(すさのおのみこと)⇒イ.正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかち

はやひあめのおしほみみのみこと)⇒天火明命(あめのほあかりのみこと)(=饒速日命)

・兄君(『記・紀』に詳しい東征の事実を記してはいませんが、物部の大部隊を率いて、日

本海ルートで大和に神武天皇より早く入られました。『先代旧事本記』に詳しく載せていま

す)ウ.日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)・弟君(饒速日命が東へ向かわれ

た後の女王国は弱体化し、邇邇藝命は力を養われるために南九州へ向かわざるを得ませんで

した)、エ.天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)(=山幸彦)⇒

オ.天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさうがやふきあへずのみこと)

⇒カ.神武天皇 となります。


b.比定される事実

上記の系譜から分かりますように、神武天皇の東征は饒速日命より遅く始り、前王朝の禅譲

をうけて、物語の連続性においても、崇神朝に完成しております。

そこで以下の推論が成立します。

ア.神武天皇と崇神天皇は同一人物か、親子、或いは、御兄弟でいらっしゃり、『記・紀』

の作者は、大和朝廷成立までの東征の事実を神武天皇の事跡として記録し、続く朝廷の完成

の時代を崇神天皇の事跡として記録したこと。


イ.闕史(欠史)八代の天皇の御名は、神武天皇が大和に入られる以前に、女王国からの数

次に亘る東征軍の派遣によって、大和(大和以外の地も含みます)に入られていた、天照大

御神と素戔烏尊の誓約(うけい)でお生まれになっていた皇孫の方々とその血を引かれる方

々を天皇の御名を持って記したものであること。


G.本論を離れて

1.神武天皇の位置が、『記・紀』とは私の比定では異なったものとなります。議論され

  有できる合意が形成されて行けば良いと思います。

2.3月10日、産経新聞記者氏が路上で逮捕されたニュースを、3月11日、のNHKが

  放送しました。

  どうなったのでしょう。大したことではないと思いますが、心配でした。

  私達は、身は微力でも思いは深く、社会を支えなければいけないと思います。

  つまらぬことで警察に持っていかれてはそれも果たせません。

  産経新聞記者というポジションと仕事を大切にされますように。




                   

                      大槌町史

              

                     黒澤氏系図 (抜粋) 

              

                       同             

             

                       同
                   
                        

                                                              同

             

                       

              

 

 

              

                        雨中の紅梅


             

                      同・白梅

 

 

 

 

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