著作権法

著作権法についてしっかり考えてみませんか。

 著作権侵害の罪

2006-08-23 02:05:38 | Weblog
 ■知的財産権侵害の罪は「10年以下の懲役」へ

 著作権侵害の罪は、自由刑については「5年以下の懲役」となっています。ところが、特許等の場合には、先の通常国会において上限が引き上げられて「10年以下の懲役」とされました。そのようなことから、著作権法も「10年以下」とすることが検討されているようです。
 「10年」とするのは、知的財産権侵害という行為は「窃盗」と同じだというメッセージを社会に発したいという意図があるようです。たしかに、知的財産権は簡単に侵害され、所有権の場合に比べると、権利が軽んじられているような感じがします。知的財産権をもっと大切にすべきだとの観点からすれば、その侵害は「窃盗」と同じとすることは、強いメッセージとなることでしょう。

 ■刑罰の重さは何で決まる?

 しかし、罰則の重さをどうやって決めるかについては、違法行為の態様や、違法行為を誘発させるような事情の違いに着目すべきだという考え方もあります。
 たしかに、違法行為の態様として「窃盗」より悪質な「強盗」は、窃盗に比べ重い罪となっています。すでに自分の手元にあるものを盗ってしまうような「横領」や、置き忘れているものを持ち逃げするような「占有離脱物横領」などは、「奪う」という行為がなかったり、あるいは、違法行為を誘発するような状況にあったということで、「窃盗」に比べて、軽い刑罰になっています。

 ■ 一般原則に照らすと・・・

 そうした一般原則に立ち返って考えると、知的財産権侵害の罪はどうなるでしょうか。
 著作権は特定のモノについての排他的権利ではないので、所有権と違って権利の対象を完全に「管理」することはできません。一般的には、だれもが簡単にコピーできてしまいます。そういう意味では、一般的には「占有離脱物横領」に近いのかもしれません。
 しかし最近では「コピーガード」が施されるようになってきました。その場合には簡単にはコピーできません。そのような場合には家に鍵がかけられていたり、ありは金庫にモノがいれられているのと極めて近い状況ですので、著作権侵害も「窃盗」に近いのかもしれません。

 そう考えると、著作権侵害は、上限は10年とすることに一定の合理性が見出せるような気がします。
 もちろん、コピーガードを破ってコピーするといった場合と、コピーガードがかかっていない場合に複製する場合とで構成要件を別立てにして、上限を定めるという措置もありえるのかもしれません。
 しかし、例えばインターネットへの送信禁止のガードがかかってる場合も別立てにするのでしょうか、他にも将来何らかの支分権に相当する行為をさせないガードが開発されたときには、そのつど構成要件を追加するのでしょうか。それはなんだか現実的ではないような気がします。
 「支分権に相当する行為をさせないような技術的措置が施されている場合」というような一般的要件を設定することも考えられなくはないですが、罰則規定として、厳格な定め方が法技術的に可能なのかどうかは、よくわかりません。

 以上つらつら考えると、著作権侵害の罪について一般的に10年とすることは、はやり一定の合理性があるような気がします。

 では、特許権の場合はどうでしょうか。著作権の場合のように「コピーガード」がかかることはありません。したがって、「窃盗」とは事情が異なるような気がします。意匠や商標についても同じです。
 もちろん、特許権を侵害する製品を製作する行為などについては、誰もが簡単にできるわけではありません。そうした行為をあえてやるという場合には、行為の態様は悪質だということはできるでしょう。しかし、それはモノを盗む行為にたとえていうならば、「放置されている自転車」や「道に落ちている現金」ではなく、「運搬が容易ではない大きなもの」を持ち逃げするようなものにすぎず、結局「占有離脱物横領」と同様ではないかという気がしてなりません。

 ・・・・ということで、なにやら「著作権」だけは、「コピーガード」という管理手段があるゆえに、上限を「窃盗」並みにすることは合理性があるが、特許等他の知的財産権の場合には「合理性」の根拠がやや薄弱のような気がいたします。

 特許庁の人やこうした立法を推進した国会議員は、こうした議論にはどのような反応をするのでしょうかねぇ。
 

 「NHK番組台本流出」だって・・・?

2006-08-18 23:20:50 | Weblog
 ■NHK番組番組台本流出

 新聞の報道によれば、「ほんまもん」などNHK番組の台本がリサイクルショップに出回り、1冊当たり100円などの値段がつけられていることが判明したとのことです。関係者の連絡先なども記されているらしく、結構「手に入れたいっ」と思う人もいることでしょう。

 しかし、疑問に思うことは、こうした台本の流出が「著作権上問題となる」というような報道がされていることです。
 確かに「台本」自体は、著作物で、勝手に複製したり、それを演じたりすれば、著作権法上問題が生じてきますが、台本というモノ自体が他人の手に渡ることは、著作権侵害になるとは考えられません。
 ・・あぁ、「譲渡権」という権利がありました。しかし、著作権法第26条の2第2項第3号で、このような場合は譲渡権は「消尽」しています。
 どう考えても、「著作権」の問題ではないと思えます。

 ■かつて「漫画原稿」も流出した

 過去においても、このような「流出事件」はありました。倒産した出版社から流出したとおもわれる漫画の原画が「まんだらけ」で販売されていたという事件もありました。
 この場合も、著作権法上は問題は生じません。問題のポイントは、漫画原稿という有体物の「所有権」だからです。
 原稿の所有権が誰に帰属するのか・・・雑誌の場合には作家と出版社との間には通常契約書は取り交わされないといいますから、所有権の帰属についても特段の明文の取り決めはないこととなります。そうだとすれば、原稿の所有権は、作家にあるということになるでしょう。そうなると、それを勝手に誰かに譲り渡した者は、横領なり窃盗などの罪に問われることとなるのではないでしょうか。

 ■もっと問題なのは「漫画原稿」のデジタル化

 しかし、作家にとってもっと憂慮すべきは、出版社は作家の了解を得ることなく、漫画原稿をデジタル化して保持している点です。
 どれほどそうしたことが行われているのかは、私も承知していませんが、結構広く行われているとも言われています。

 「デジタル化」しておくことは、現在の日本のポップカルチャーをしっかり記録にとどめておくという意味でも、意義があることとは思えます。しかし、作家の了解なくこれが行われる場合には、そもそもその行為自体が適法ではないばかりか、それを活用しようとした場合に、作家の了解が必要となりますから、将来それを有意義に活用しようとしてもそれができなくなる恐れがあります。
 作家の了解が取れるうちに、きちんと了解を取っておくことが必要ではないでしょうか。


 ・・・・「NHK番組台本流出」というニュースに接し、あれこれ考えた一日でありました・・・

著作権教育のあり方

2006-08-13 05:05:07 | Weblog
 ■創作する者に対する「敬意」は現在の教育の場では培われることはない?

 小学校の社会科では、米作りについてしっかり教育が行われます。また他にも水産業、工業などの産業の状況も教育され、子どもたちはその過程で、モノづくりの大切さを学ぶことになります。

 しかし、芸術作品を創作することがいかに大変なのか、演じる人たちがどれがけ苦労して作品を作り上げていくのかを教育する場面はありません。国語は読解力の育成、音楽は演奏・歌唱、美術などは自ら創作することが中心で、鑑賞もないわけではありませんが、創作した人やそれをわれわれに伝達してくれる人の努力は、教えられることはありません。

 ■著作権教育は、「ルール」を教えるもの

 著作権教育については、ルールを教えるのか、モラルを教えるのかという議論があります。著作権制度は、著作権を保護して欲しいという権利者と利用したい者との間の政治的な力関係によって構築される人工的なものだという観念から議論を出発させれば、その結果決定される著作権制度は、人工的な「ルール」であるので、「ルール」を教える教育ということになります。 

 ■「学校」で教えられるべきことは・・・

 しかし、「ルール」はしばしば変更されます。また細かなルールを学校の場で教えることに、どれほどの意義があるのかも分かりません。
 私は、学校・・・特に小中学校のレベルでは、「モラル」の教育が重要だと思っています。著作権制度という「ルール」を教える際、その背景にあるはずの、人間の知的活動の所産への敬意が育まれるように配慮すべきではないでしょうか。
 多くの人がそのような気持ちを持たないと、日本で創作しようとする人は気持ちが腐ってしまうでしょうし、諸外国からも「文化を大切にしない国だ」と言われかねないような気がします。

 ■創作する側の態度

 創作する側は、自分の好きなことをやるる、自分のしたいように表現活動を行うという側面があります。それはそれで結構ですし、そうした中から優れたもの、独創的なものが出てくるのだと思います。

 しかし、「社会性」をもっと持つ必要があるでしょうね。
 世の中の人が「使わせてくれ」といったら、つまらないこだわりをすてて、つかわせるなどの配慮も必要なのではないでしょうか。

TV番組の録画と送信のサービス

2006-08-07 01:50:52 | Weblog
 ■ 録画サービス訴訟「合法」判断

 新聞報道によると、TV番組を録音して送信するサービスを実施している会社が放送事業者から訴えられたようですが、裁判官は、ひとつの機器からは1箇所にしか送信できないのだから、「不特定」への送信ではないので、放送事業者の著作隣接権(=送信可能化権)を侵害していないと判断したようです。

 事実関係がはっきりしていませんが、この会社はどうも、SONY製の送信する機器を顧客が提供して、そのおもりをしていたようです。会社自身が機器を操作したのなら、会社が複製・送信したことになるので、権利侵害が問題となりますが、そもそも顧客がセットしておいて、会社はそれがうまくいくかどうか見守るだけなら、著作権法上の問題は生じないように思われます。

 しかし、今回の裁判所の判断は、新聞情報によればそのような判断ではなく、送信行為が「不特定への送信」ではないとすることによって、放送事業者の権利を侵害していないとするものでした。
 たしかに、1台の機器が送信するのはその顧客が指定する場所に限られます。しかし、その会社が送信主体であると考えますと、どんな顧客が来てもそのようなサービスを提供するわけですから、「不特定」ではないでしょうか。ひとつの機器が1箇所にしか送信しないとしても、着目すべきは、個々の機器ではなく、その業者が何をしているかでしょう。

 ■判断したのは・・・・

 新聞記事を見て、判断を下した裁判官は、著作物の流通を権利保護より大切にする価値観を持っている人だということに気がつきました。この「不特定」の解釈も、「公定解釈」とは異なる解釈ではないでしょうか。「公定解釈」を信じていた人が多いだけに、皆びっくりしているでしょうね。知財高裁では、どのような判断が下されるのか、注目されるところです。

著作権問題は経済問題ではない?

2006-08-04 02:23:46 | Weblog
 ■「権利者」側の声を聴いて、気持ちを察してみました

 「権利が与えられているのに、なんでこう易々と無視されるんだろうか?」というのが、著作権なり著作隣接権を持っている人の偽らざる気持ちでしょう。WinnyにしろYouTubeにしろ、それで市販のCDやTV番組をアップロードすることは違法だということは多くの人がわかっているはずなのに、なんでこうしたことが平然と行われているのだろう・・・と考えるのではないでしょうか。

 「コンテンツ」という言葉もそうです。創作する人たちは、コンテンツという言葉を嫌う人も少なくないようです。明らかにメディア側から見た表現ですし、創作物はあきらかにメディアに従属しているような印象を与える表現だと考えるのは無理もないような気がします。

 私的録音録画補償金も、金銭的な面より「気持ち」の問題が大きいような気がします。創作者側からすれば、自分たちが努力して作ったものをコピーする機械が売られて、メーカーは利益を得ているではないか、CDの売り上げに影響もあるのに、勝手にそうした機器が製造販売されているという気持ちでしょう。
 たかが総計年間40億円程度の話です。JASRACだけみてみても、年間1,100億円の収入があるわけですし、大手電機メーカーの年間の研究開発経費は数千億円というではありませんか。

 「権利処理」という表現も、権利者側の気持ちを害するものなのでしょうね。「処理」というと、「ゴミ処理」、「むだ毛処理」などということばもありますが、とにかく、「厄介なもの」で、「さっさと片付けたいもの」というイメージがあります。

 ネット上にコンテンツを出すことを拒む権利者も、その本質的な理由は「経済」ではなく、「感情」です。役務放送事業者は、「通信回線を利用するのにこのくらいの費用がかかるので、権利者にはこのくらいの額しか出せないのだ」という説明をかつてしたことがあるのだそうです。権利者からすれば、なんで自分たちの方が値引きを甘んじて受けなければいけないのか、と思うようです。
 また、額が非常に安くなると、「自分たちの芸はこんな価値しかないのか」という気持ちにもなるようです。

 保護期間の延長問題も、経済的にたちまち大きな負担がどこかにかかるというものではありません。

 創作をする者に「敬意」や「配慮」が欲しいということを、創作をする人たちが言っているのを耳にしたことがあります。「自分たちは大切に思われていない」という認識でいるのでしょう。だからこそ、著作権の問題は文化の問題だという言い方がされるのだと思います。

 ■著作権の問題は「経済問題」ではない?

 著作物は「経済財」としての意味は大きいのですが、権利者の行動は、経済学が想定している合理的なものではないと思います。「感情」がどんな行動を取るかの決定に与える影響は非常に大きいのではないかと思います。
 その意味で、私は著作権をめぐる様々な問題の多くは経済問題ではないと考えずにはいられないのです。

 学校等における著作権教育も、著作権制度のルールを教えるのではなく、著作者等に対する敬意の念を持つようにする教育であるべきではないでしょうか。人々がそうした気持ちを持てば、多くの著作権上の問題は解決の道が開けるのではないかと思います。  

コピーワンス

2006-08-03 00:57:15 | Weblog
 ■「コピーワンス」緩和の方向へ

 情報通信審議会の中間答申が8月1日出されましたが、地上デジタル放送のコピー制限については、現在のコピーワンスを緩和するとの方向性が示されたようです。

 ■「コピーワンス」のどこが不都合なのか

 コピーワンスの不便さとしてしばしば紹介されるのは、「ムーブがなされている最中にしばしば機器に不都合が起こる」というものでした。しかし、それって「コピーワンス」という方式が悪いのではなく、機器の性能が悪いというべきではないでしょうか。そもそも「コピーワンス」は、機器のメーカーから提案され採用された方式だといいます。そのメーカーが性能の悪い機器を販売し消費者から不評を買っているわけですが、本来ならまずは、その機器の性能を向上させるのが筋というものでしょう。

 ■コピーワンス緩和で「儲かる人」、「損する人」

 コピーワンスを緩和して基本的にコピーは自由にする(しかしインターネットに出すことは禁止する)という措置をとることは、、メーカーが機器の性能向上のための開発経費を今後負担しなくてもよいし、消費者にとっては使い勝手がよくなるので商品力を高めるという効果を招来させるものです。メーカーにとってはこんなにいいことはありません。
 しかしながらコピーが自由になるということは、テレビ番組がいったん録画されるとデジタルの孫コピーなどが自由に作られるということを意味します。劇場用映画もテレビ放映されれば、DVDであればコピーが不可能なのにデジタルのコピーが可能となってしまいます。放送番組を制作する放送事業者や映画制作者にとっては不利になりますので、新聞などで報道されているように、こうした立場の者は強く反対することになるのでしょう。

 ■利害調整が必要では?

 コピーワンス緩和のように消費者にとって使い勝手がよくなる方向に持っていくのは、世の中の流れだと思います。しかし、それを行うことによって得する者と存する者が現れるのであれば、その間の利害の調整が必要になるのではないでしょうか。
 どんなDRMをつけるかは、番組を放送する放送事業者と、受像機を市場にだすメーカーの意見の一致が不可欠です。いわば民・民の合意事項であるはずのものですが、今回国の審議会はそれに「介入」するように一定の方向を示しました。こうした「介入」で一方的に損をする者がでるのであれば、極論かもしれませんが、その損害を補填しなければいけないのではないでしょうか。
 私は、ユーザーがコピーを自由にできるのであれば、ユーザー自身も便利さを享受できるわけですから、ユーザー及びメーカーが放送事業者などに対して一定の金銭の支払いをしなければいけないのではないかと思います。現在議論されている「私的録音録画補償金制度」による補償金支払いでもいいですし、別の方策でもかまいません。そうした手段が講じられることにより、すべての関係者が大きな不満を持つことがないように制度が構築されるべきだと思っています。