クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

子ども観の違い:母性社会日本05

2012年10月18日 | 母性社会日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

現在、二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理している。

近代化とは、西欧文明の背景にある一神教的な世界観を受け入れ、文化を全体として男性原理的なものに作り替えていくことだだともいえる。近代文明を享受する国々では、一神教的=男性原理的なシステムの下に、農耕文明以前のアニミズム的な文化などはほとんど跡形もなく消え去っている。ところが日本文明だけは、近代化にいち早く成功しながら、その社会・文化システムの中に縄文以来の太古の層を濃厚に残しているように見える。つまり、男性原理の近代文明が抹殺した原初的な母性原理の文明が、現代の社会システムの中に奇跡的に生残っているのだ。

それは、近代文明が忘れ去って久しい、原初の文明の記憶だ。世界中の人々は、きわめて高度にテクノロジー化された現代日本社会や文化のなかに、その原初の記憶を感じ取り、不思議な魅力に取りつかれるのだ。そして、その不思議な魅力がクールジャパンの根底に横たわっている。

世界がマンガ・アニメに引かれる背景には、現代文明の最先端を突き進みながら一神教的なコスモロジーとは違う何かが息づいていることをそこに感じるからではないか。日本のソフト製品に共通する「かわいい」、「子どもらしさ」、「天真爛漫さ」、「新鮮さ」などは、自然や自然な人間らしさにより近いアニミズム的な感覚とどこかでつながっているのではないか。それは、原初的・母性原理的な感覚といってもよい。そして、そのような感覚は今後ますます大切な意味をもつようになるのではないか。

『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(3)
日本発の「かわいい」文化が世界中で受け入れられている。「かわいい」は日本文化に深く根ざした特殊なものだからこそ世界で珍重されるのか、それとも世界中の人間が享受しうる、何らかの普遍性をもつからこそ受け入れられるのか。私としては、そこに両方の側面があるといわざるを得ない。そう言うと、結局同じように結論を避けているだけではないかと言われそうだが、問題は両方の側面があるということを根拠を示して説明することだろう。

まず文化の普遍性、原型論の立場からいうなら、これまで何度か触れた縄文文化とケルト文化の類似性を思い起こすことが重要である。そして日本文化の特殊性、およびその伝搬という立場で論ずるなら、なぜ日本で農耕文化以前の漁撈・採集的な縄文文化の残滓が生き残りつづけたかという問いに注目する必要があるだろう。

日本の縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多い。土偶そのものの存在が、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。日本人は、縄文的な心性を色濃く残したまま、近代国家にいちはやく仲間入りした。そこに日本の特殊性がある。

縄文的な心性を現代にまで残してきた日本文化の「特殊性」は、世界のどの文明もかつてはそこから生れ出てきたはずの、農耕・牧畜以前の母性原理に根ざした狩猟・採集文化という「原型の記憶」を呼び覚ますのだ。

子どもの楽園(1)
イザベラ・バードは明治11年の日光での見聞として書いている。
「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたり、それに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭に連れて行き、こどもがいないとしんから満足することができない。」

イザベラ・バードの目には、日本人の子どもへの愛は、ほとんど「子ども崇拝」にすら見えたのではないかという。まさに子どもの無邪気さのなかに神性を見る日本文化と日本人の特性が、遠い昔からあって、その子育ての姿が、西欧人には驚くべきものとして映っていたようなのだ。イザベラ・バードの観察と同じような、西欧人の観察が、『逝きし世の面影』の中にはたくさん紹介されている。

子どもの楽園(2)
さらに、『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』から。時代はさかのぼるが、ポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・ロイス(1532ころ~1596/97)は言う。「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない、ただ言葉によって叱責するだけだ。」子どもを鞭打って懲罰することがない、ということはオランダ長崎商館の館員たちも注目していたという。逆に言えば、欧米では子どもが鞭打たれて懲罰されることは、何の不思議でもなかったということだろう。

さらに欧米人が驚くのは、日本では子どもをひどく可愛がり甘やかすにもかかわらず、「好ましい態度を身につけてゆく」ということだった。欧米と日本とでは、いわゆる躾けに関する考え方にもかなり大きな違いがあり、その背後には当然、子ども観の違いも横たわっていただろう。さらに父性原理の子育て観と母性原理のそれとの違いを見ることもできる。

子どもを劣等な大人として、鞭打ち躾ける対象として見るのではなく、大切な授かりものとして、その子どもらしさを愛し続けたのが、日本の伝統なのだろうか。もしそうだとすれば、そうした伝統が何らかの前提なって、現代のマンガやアニメに代表されるポップカルチャーが花開いたとしても不思議ではない。

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2 コメント

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子供観、 (阿部明)
2012-10-19 12:24:22
>子どもを劣等な大人として、鞭打ち躾ける対象として
見るのではなく

 文化を多様な視点から見る、という日本的な方法が
 とても好きです、

 子どもを生まれつき性悪で不善な人間であるという
 見方は、旧約聖書の中に書いているのでしょうか?
Unknown (cooljapan)
2012-10-23 14:32:08
お返事遅れてすみません。

ご質問の旧約に書かれていたかどうかですが、旧約のすべてを読んではいないので定かなことはわかりません。
しかし旧約にそういう子ども観が打ち出されているという話も聞いたことはありません。

推測ですが、ギリシャ以来の理性主義と牧畜文化とが影響しあって、人間=理性をもった生き物、子ども=理性が十分の開花しない生き物という発想が成立し、そこからヨーロッパの子ども観が形成されていったのではないでしょうか。

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