学校でのおもらしから統合失調症の緊張型を発症させてひきこもりにいたったことは前々回のブログにかきました。
統合失調症の原因は学校でのおもらしだったのですね。日常生活の具体的な場面が発症の原因になったことがわかれば、「予防」にもおおきく近づけます。
ところが統合失調症をひきおこすのはもう一つ具体的な原因があるのです。それは他者とのケンカです。今回はそれをかきましょう。
ぼくがせっかく進学した開成高校へ行かず自宅にひきこもったのは高校一年の三学期だけです。
高校をやめようかとも思ったのですが、やはり「開成」というブランドが魅力的だったのですね、やめませんでした。そして留年しました。
ですが統合失調症の症状である緊張が強く、勉強は手につきません。哲学の本をよんだり、詩の雑誌をかったりしてました。
お寺にも行きました。学校の近くの禅寺ですね。
そして問題の塾に通いだしました。国語の塾です。ぼくはそこの先生とケンカしたのです。
先進的な塾でした。文章を発表し、高校生なのに話し合いを主にするのです。
ぼくはそこにはまってしまいました。もとよりまじめに問題をとくことをぼくは目的としていませんでした。
留年して、勉強ができずうっぷんがたまるので文章に書きたいことをかきまくるのがうさばらしになるのです。
同じクラスは人数が十数名で、女の子が多く、ふつうの子たちでした。ぼくのように学校からはみだしすぎているのはいませんでした。
女の子が多いということもあり、かっこつけて書きたい文章をかきまくっていたぼくは、先生からの批判をうっとうしく思うようになりました。
先生のぼくに対する批判が、かっこつけたいぼくにしてみればクラスのなかでぼくのイメージを悪くしていると思えたのです。
先生のことが嫌いでした。
そんなあるとき、また先生がクラスの授業でぼくに厳しいことを言い出しました。
ぼくは腹をたて、ひざで机の裏をけったのです。
ところが先生はそれを「立ち上がりかけた。」といいました。つづいて「恐怖感をあたえた。」という表現をつづけました。
ぼくはそのときに激怒を開始しました。
ぼくにとっては立ち上がりかけていないのに「立ち上がりかけた」と間違えたことが許せなかったのです。
それに続き、恐怖感を与えたとクラスの女の子にも言うことが女の子たちにぼくのイメージを悪くすることを意図しているように思えました。
ぼくは先生に「立ち上がりかけた」ことが間違いであることを認めてもらいたかったのです。ところが先生は結局そこに気づかなかったと思います。
先生は「興奮している」などといいだし、それをきくとぼくはますます怒り出しました。
そうなるともうきちんと授業を受けるということはできません。
ぼくは「あのやろうっ。」という気持ちでした。
あるとき授業が終わるのをまって先生を待ち伏せました。でてきた先生をたたいたかどうかおぼえていません。
先生は走って逃げました。
ぼくは塾に行かなくなりました。
ですが怒りつづけました。
寺へ行って坐禅をくみながら「あのやろうっ、あのくそやろうっ。」と怒りつづけるのです。
解説すると、強い怒りの感情を爆発させつづけたのですね。容易には消えない怒りの感情のかたまりがぼくのこころにどんどん発生しつづけたのです。
怒りの感情のかたまりは、燃えている石炭のようです。燃えている石炭が腹のうえにあれば、あつくてあつくて苦しすぎますよね、そういう状態です。
あつくてあつくて苦しい状態、妄想というのはそこから発生してきます。
ぼくは先生とのトラブルから何か月かして家で大暴れして入院しました。そのときの妄想は「親父が性犯罪をおこしたのでおれが警察に追跡されている」というものです。
なぜそんな奇妙な妄想が発生するのかと言うと、まず燃え盛っている怒りがこころの中にあってさわるとやけどしそうなんです。
あのやろうっ、あのやろうっ、という怒りです。
その怒りから逃げたいわけです。ですが自分のこころのなかにあって逃げられない。
ほんとうは怒りたいんじゃなくて先生のことを笑ってバカにしたいのです。仕返ししたい。
しかし仕返しできない。そこで観念して怒りを受け入れられるでしょうか?
こたえはあつくて苦しくて怒りを受け入れられないのです。
ところがその怒りを材料に、親父が性犯罪をおかしたという考えがうまれると、その怒りはなんとか受け入れることができる。苦しいのが多少軽減する。
親父、あやまれ、とか言い出す。
すじちがいの怒りですが、それでも怒りの苦しさがなんとかかわせそうに思えるわけです。
激怒、怨みが変形して妄想になるのはその感情の苦しさが原因ですね。
脳のバランスが崩れて大脳から妄想が発生するわけではないです。
(とまと)
統合失調症の原因は学校でのおもらしだったのですね。日常生活の具体的な場面が発症の原因になったことがわかれば、「予防」にもおおきく近づけます。
ところが統合失調症をひきおこすのはもう一つ具体的な原因があるのです。それは他者とのケンカです。今回はそれをかきましょう。
ぼくがせっかく進学した開成高校へ行かず自宅にひきこもったのは高校一年の三学期だけです。
高校をやめようかとも思ったのですが、やはり「開成」というブランドが魅力的だったのですね、やめませんでした。そして留年しました。
ですが統合失調症の症状である緊張が強く、勉強は手につきません。哲学の本をよんだり、詩の雑誌をかったりしてました。
お寺にも行きました。学校の近くの禅寺ですね。
そして問題の塾に通いだしました。国語の塾です。ぼくはそこの先生とケンカしたのです。
先進的な塾でした。文章を発表し、高校生なのに話し合いを主にするのです。
ぼくはそこにはまってしまいました。もとよりまじめに問題をとくことをぼくは目的としていませんでした。
留年して、勉強ができずうっぷんがたまるので文章に書きたいことをかきまくるのがうさばらしになるのです。
同じクラスは人数が十数名で、女の子が多く、ふつうの子たちでした。ぼくのように学校からはみだしすぎているのはいませんでした。
女の子が多いということもあり、かっこつけて書きたい文章をかきまくっていたぼくは、先生からの批判をうっとうしく思うようになりました。
先生のぼくに対する批判が、かっこつけたいぼくにしてみればクラスのなかでぼくのイメージを悪くしていると思えたのです。
先生のことが嫌いでした。
そんなあるとき、また先生がクラスの授業でぼくに厳しいことを言い出しました。
ぼくは腹をたて、ひざで机の裏をけったのです。
ところが先生はそれを「立ち上がりかけた。」といいました。つづいて「恐怖感をあたえた。」という表現をつづけました。
ぼくはそのときに激怒を開始しました。
ぼくにとっては立ち上がりかけていないのに「立ち上がりかけた」と間違えたことが許せなかったのです。
それに続き、恐怖感を与えたとクラスの女の子にも言うことが女の子たちにぼくのイメージを悪くすることを意図しているように思えました。
ぼくは先生に「立ち上がりかけた」ことが間違いであることを認めてもらいたかったのです。ところが先生は結局そこに気づかなかったと思います。
先生は「興奮している」などといいだし、それをきくとぼくはますます怒り出しました。
そうなるともうきちんと授業を受けるということはできません。
ぼくは「あのやろうっ。」という気持ちでした。
あるとき授業が終わるのをまって先生を待ち伏せました。でてきた先生をたたいたかどうかおぼえていません。
先生は走って逃げました。
ぼくは塾に行かなくなりました。
ですが怒りつづけました。
寺へ行って坐禅をくみながら「あのやろうっ、あのくそやろうっ。」と怒りつづけるのです。
解説すると、強い怒りの感情を爆発させつづけたのですね。容易には消えない怒りの感情のかたまりがぼくのこころにどんどん発生しつづけたのです。
怒りの感情のかたまりは、燃えている石炭のようです。燃えている石炭が腹のうえにあれば、あつくてあつくて苦しすぎますよね、そういう状態です。
あつくてあつくて苦しい状態、妄想というのはそこから発生してきます。
ぼくは先生とのトラブルから何か月かして家で大暴れして入院しました。そのときの妄想は「親父が性犯罪をおこしたのでおれが警察に追跡されている」というものです。
なぜそんな奇妙な妄想が発生するのかと言うと、まず燃え盛っている怒りがこころの中にあってさわるとやけどしそうなんです。
あのやろうっ、あのやろうっ、という怒りです。
その怒りから逃げたいわけです。ですが自分のこころのなかにあって逃げられない。
ほんとうは怒りたいんじゃなくて先生のことを笑ってバカにしたいのです。仕返ししたい。
しかし仕返しできない。そこで観念して怒りを受け入れられるでしょうか?
こたえはあつくて苦しくて怒りを受け入れられないのです。
ところがその怒りを材料に、親父が性犯罪をおかしたという考えがうまれると、その怒りはなんとか受け入れることができる。苦しいのが多少軽減する。
親父、あやまれ、とか言い出す。
すじちがいの怒りですが、それでも怒りの苦しさがなんとかかわせそうに思えるわけです。
激怒、怨みが変形して妄想になるのはその感情の苦しさが原因ですね。
脳のバランスが崩れて大脳から妄想が発生するわけではないです。
(とまと)