風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』

2016-08-17 21:10:02 | 


フィリッポ・リッピ『聖母子と天使』
ボッティチェリの師匠で、フィリッピーノ・リッピのお父さんで、“恋するお坊さん”のフィリッポ・リッピ。本書曰く「聖母マリア(マドンナ)の絵を描かせると、彼はとてつもなく上手でした。ただしそのモデルは自分の愛する女性で、その人以外を描くと、言っては悪いけれど、まるで下手くそ」「自分の愛する人」しか綺麗に描けない「変人」とのこと。先日のボッティチェリ展に出品されていたこの画家の聖母の絵は私にはあまり綺麗とは感じられないものだったのだけれど、この聖母↑はたしかに綺麗(というか可憐)ですね~。



ヤマザキマリさんが「偏愛」する「主観的で、感情的な」ルネサンス期の変人たちについて、「主観的で、感情的な」視点から書かれた本。
自分の感性と違うところは当然あっても、こういう本もあっていい、と思わせられる楽しい本でした。本文で紹介されている絵画の写真が全ては載っていないのは、私のような素人にはキツかったですが(^_^;)
主観的、感情的、結構じゃないの。人の好みなんて十人十色。相手の意見も尊重する客観的視点を失わずにさえいれば(重要)、人が好きなものを「私は好きではない」と言うのは全然構わないと思うの。その人が好きであることまで否定しているわけではないのだから。逆も然り。そうすることで互いへの理解も深まるし。

教養や知性が欠如した状態のままで放置されると、人はいかに堕落し、劣化してしまうかということを、ヨーロッパの中世は証明しました。長引く不景気の中で、いまの日本は人文系学問の価値を認めない風潮がはびこっています。「日本では国立大学の人文学部を縮小していくらしい」とヨーロッパの友人たちに話すと、「そんなことで日本は大丈夫か」とビックリされてしまいます。
実利的な知識ばかりを重んじ、人文的な学問を軽んじる傾向が根強い日本は、いまだにルネサンスの時代のイタリアに遠く及ばないのかもしれません。

この「人文系学問~」云々に関してはとっても同感。どうかもっと色んな場で言ってくだされ~と思いました。本当に、日本人はなぜにこれほどまでに(必要以上に)物事の価値を即物的に判断するようになってしまったのでしょう・・・。「生活の得にはならないけど心の得になる」ものこそ、私達の人生を豊かにしてくれるものであるはずなのに。

 与えられた教義を、何も疑問に思わずに信じるのは楽なことです。ひとたび信じてしまえば、後は何も自分の責任にしなくていいからです。でも、宗教について突き詰めて考えた人は、そこで必ず、「信仰とは」「この教義の意味とは」という疑問に行き当たります。それらを考える過程で、より本質的な思考が生まれるのです。
 本質的な思考に必要なのは、何ごとも無条件には信じない力、つまり懐疑的な精神です。既存の社会秩序に対する疑問なしに、知性というものは生まれてきません。
 宗教からまだ完全に自由ではない西洋人より、宗教概念が希薄な日本人のほうが、精神的に自由だとはいえないと私は思います。誰もが既存の考え方に流され、「長いものに巻かれる」風潮は日本のほうが顕著です。いまの日本にいちばん欠けているのは、ルネサンスを育んだ懐疑的な精神ではないでしょうか。

今の日本に欠けているのは懐疑的な精神というのも同感です。そして何事にも「長いものに巻かれない」精神で向き合うべきであることは、もちろん本書に対しても言えることで。ここに書かれた彼女のルネサンス論も妄信するのではなく、「自分の頭で咀嚼する」ことが大事なのよね。そのためには、こちらもそれだけの知性と磨かれた感性が必要なわけで。そういう知性や感性を磨くことに歓びや幸福を感じるのも人間だけ。ですよね、マリさん

ところで本書に限らず日本人の精神的な特質の根拠として「無宗教」「神の不在」が関連付けられることが多いですが(遠藤周作さんとか)、私はあまりそうは思わないのです。日本は一神教を持たないだけで、生活の中に神々を当たり前に持ってきた国ですし、人智を超えた大いなる存在に対する感受性も西洋人に劣らないと思います。そしてそういったものについて突き詰めて考えることなく、それらに対する畏れも失いつつあるのは、日本も西洋も同じだと思うのです。

また「江戸時代の鎖国が日本人特有の閉鎖的精神を作ってしまった」という部分についても、どうかな?と。例えば江戸時代に花開いた歌舞伎や文楽や落語。西洋思想の影響を受けない中で封建的な時代において花開いた江戸文化のある種のおおらかさと自由さと独創性は、明治以降の日本では生まれ得なかったものではないかしら、と思うのです。そしてそれは決して異端を嫌う閉鎖的なものとは言えないですし、そこには知的好奇心もいっぱいですよね。
ですからどこかの段階でこの国に「右に倣え」の精神が生まれてしまったのだとしたら、それは明治以降、あるいは第二次大戦以降、あるいはもっと最近のことではないかしら。マリさんと交流のあった勘三郎さんなどは、そのあたりどう考えていたのかな。
とはいっても最近は日本もだいぶ変わってきたようにも思いますけどね。

 「創造」などという、お腹がたまるわけでもない活動に一生懸命になるなんて、動物としての本能からみれば異常なことかもしれません。でも私は、人間は「創造」という行為を生きるのに無くてはならないものとし、それによって人生に彩りを添えようとする特異な生き物だと考えています。食事や睡眠が体にとって欠かせないのと同様、精神にとっては芸術や知識が欠かせない――ルネサンスとは、そのことにヨーロッパの多くの人が気づいた歴史的瞬間だったのだと私は思います。

 極限状況のもとでは、知性や芸術から受ける刺激なしに、人が動物のように生きざるをえないこともあるでしょう。そう考えると、絶望的な気持ちになります。
 でも、一度でも何かを綺麗だと感じたり、ものごとから知的な刺激を受けて、知識や芸術に対する感受性が花開いてしまえば、人はそれなしでは生きていけなくなる。私はそのことを信じているのです。

はい、私もそう信じています(^-^)

最後に、もう一つ思うことを(本書についてではありませんが)。
多様性や個性的であることに価値が置かれすぎて、もし「普通」を下に見る傾向に社会が向かってしまうとしたら、それも違うのではないかな、と。
「個性がないのも個性」。わかりやすい「個性的な人」だけでなく、不器用な人も口下手な人も真面目な人も、イケてる人もイケてない人もどちらでもない人も、普通の人も普通じゃない人も、それら全ての個性を受け入れる懐の深い社会が、本当の「多様性を認める社会」なのだと思います。

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