風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『通し狂言 伊賀越道中双六』 @国立劇場(12月23日)

2015-01-08 00:00:02 | 歌舞伎




クリスマスからずーっと風邪で臥せっていたため、感想を書かないまま年を越してしまった。もう1月の歌舞伎座も行っちゃったわ。。
誰も読まないかもしれないけど、今書いておかないと永久に記憶が消えそうなので、書きます!

この演目を観るのは今回が初めてで、日本三大仇討ちという言葉も、伊賀越えという仇討ち事件のことも、今回初めて知りました。
「岡崎」は44年ぶりの上演だそうで、そういえば去年の師走の「忠臣蔵形容画合」も60年ぶりでしたねぇ。歌舞伎座も、役者を変えて同じ演目ばかりやらずに、こういう珍しい演目ももっと上演してくれたらいいのに。。(まぁ同じ演目ばかりやってくれるおかげで、私のような新参者も有名な作品を待たずに観られるのですけど)

そして今回の舞台を観て、松竹は吉右衛門さんを本当に大事にした方がいい、と超上から目線で恐縮ですが、心の底から思いましたよ。
役者としての吉右衛門さんの素晴らしさはもちろんですが、今回はなにより「岡崎」をほぼ変更を加えることなく上演してくださったこと。以前松緑のカテコの件があったときに「歌舞伎のアイデンティティー」というものについてここで書いたことがありましたが、「変えるべきもの」と「変えてはいけないもの」の見極めって、伝統芸能の分野では物凄ーーーく大切だと思うのです。それを変えてしまったらもう歌舞伎ではなくなる、というような境界線。そこを蔑ろにしてしまったら、グズグズとあっという間に土台が崩れて、気付いたときには手遅れになりかねないと思うからです。
例えば今回の「岡崎」のような作品を「今の時代と合わないから」とソフトな表現に変えたりすることなどは、それを上演しないよりもっとタチが悪いとさえ思う(「恐怖時代」の改変など最悪だった・・・)。
ですから今回吉右衛門さんがそれをせず、またそういう姿を若い役者さん達に見せてくださったことは、すごく価値があることだったと思うのです。

以下、お芝居の感想。

歌六さん(幸兵衛)、とてもよかった!政右衛門が追手と闘っている姿を腕を組んで眺めている立ち姿、雰囲気ありました~。『松浦の太鼓』で、ただ立っているだけでどういう人間なのかがわかる、彼が感じている空気が伝わってくるあの歌六さんを思い出した!
東蔵さん(おつや)も同じく、火鉢にあたって座っている姿など、空気が伝わってきた~。
そこが菊之助(志津馬)や米吉(お袖)との違いというか・・・。菊ちゃんや米吉くんは、なんというか、舞台の上にいるその時間だけを演じているように見えるのです。その役の人生や生活が見えないというか。丁寧に下駄や草履に雪までついているのに、肝心の空気が~伝わってこない~。二人の掛け合いは面白味があって楽しめたけれど、それってある意味最も手軽な客の楽しませ方よね。。でも、楽しいだけじゃ満足度は低いのよ~。。難しくても、ちょっとずつでも、色気とか空気を作ることにももっと力を注いでほしいと思うの。。エラそうにすみませんっ。とはいえ若く美しい二人だったので、眼福ではありました。

吉右衛門さん(政右衛門)、包丁と俎板がお似合いでいらっしゃること 辛い場面だけど惚れ惚れ
この「莨(たばこ)切り」の場面、最初「ん?フリだけ?」と思ったら、ものすごく細かく切っているのですね。吃驚。道具も、珍しいものが見られたなぁ。煙草は、最初スルメイカが干してあるのかと思ったら、煙草の葉だった^^; 煙草の葉ってあんな形をしているのですねぇ。

芝雀さん(お谷)と吉右衛門さんのカップルはもう見慣れ過ぎていて(正直ちょっと飽きてきたかも・・・^^;)、あの赤ん坊も当たり前に二人の子供に見えたわ~。あんなにリアルから程遠い赤ん坊なのに。なので政右衛門にブスリとやられて、ぺっと雪の庭に捨てられるあの場面は、うっと胸が苦しくなりました。。一番苦しいのは政右衛門でしょうけれど。いや違うかな、やっぱりお谷だろうな。。

時々止んで、また降り始める雪とか。入相の鐘とともに閉じられる関の門とか。当時の冬の情景をその場で見ているようで、楽しかった。私は四季の中で雪のお芝居が一番好きです。

お袖ちゃんの最後は、野崎村な展開なのですね。菊ちゃんのお光ちゃんがまた観たいなぁ、と舞台にいる菊之助を見ながら思いました。菊ちゃんは最近立ち役が多くて寂しい・・・


※あぜくらの集い イベントレポート
『通し狂言 伊賀越道中双六』を楽しむために

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