conparu blog

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出会い

2023-04-21 21:59:35 | 随想

かなり前ではあるが新聞の広告欄に、司馬遼太郎の「無人島に1冊の本を持って行くなら歎異抄だ」との一コマが載っていた。人は無意識のうちであつても、そのものが眼前に現れた瞬間に認識へ変わるものか。意識していなくとも求めに応じて結果が現れるものだ。「歎異抄」が眼に止まったのも出会いの内である。なぜ「歎異抄」だったのだろう。仏教徒でもない自分がなぜ関心を抱いたのだろうか。思い返せば我が性向は、宗教的な静謐さを求めてきたきらいがある。遠い過去から煩悩に埋もれながら、ともに生まれてきた人間を、束縛の塊で抑圧し、鈍重な少年に育て上げたモノは何者だったのか?たまたま常軌を逸脱した行為に走った時などは、逆の理性でもって反省を強いる反面もあって、複雑な内面世界に落ち込んでいたモノだ。世間的な大罪も犯さずに今日があるのは、そんな世界から引き上げてくれる影の力もあったって事か。悪に染まる機会から遠ざけてくれた力のお陰である。

親元を離れてからは、学校の先生や職場の先輩、上司からは好意的に接していただいた。「好事魔多し」とは裏腹に、陰りのない若年時代であった。将来の人生への展望がチラと頭を過ると、現在の不確かな境遇に迷いが生じて、大人への船出が始まったのである。

ペルシャ湾から帰路の途上で、インド洋の荒波に翻弄された商船のパッセージに立ちながら、暴風の吹き来るイントランスの外を見れば、怒涛の波しぶきが轟音とともに容赦なくデッキを洗っている。これぞ外界なのだ、生まれ来て通過しなければならない娑婆の姿なのだ。「歎異抄」の出会いが因縁として既にインプットされたとすれば、この時こそが兆しであった。
高森顕徹著『歎異抄をひらく』を購入したのは、2021年4月amazon宅配による。コロナウィルスが猛威を振るい始めた頃で、家に閉じこもりながら読んでいた。内容は難解な宗教書でありながら、平易な文体で丁寧な解釈を載せているので、頭では理解しやすく分かったつもりになるのだが、『歎異抄』の奥深い仏心を摂取するのはなかなか容易ではない。仏教を深く知りたい思いから「仏教アカデミー」に入会し、勉強も久しいけれど、仏教の根幹は『因果の道理』にあり、三世十方を貫く不変の法則だと知らされた。『因縁果』の行いの原因とそれによる結果なのだと。三世を貫くとは、遠い過去から現在、さらには来世へと引き継がれる業因の種子が、様々な運命となって子々孫々にも影響を与え続けるというもの。2600年前の釈迦如来が仏教を起こして以来、災難にも遭いながら法然上人、そして親鸞聖人の不屈の布教活動によって、今日の私達に人生の目的を示している。インド洋の波は未だに荒れたままであるが。

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