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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

女子校

2010-03-30 23:35:24 | 思索
とある夕食会に参加した時のこと、旧知の友人が同じ職場に勤める若い女性を連れて来ていた。世間話で盛り上がる中、世代ギャップを感じながらも幾らか彼女とも話をした。彼女は某女子大を卒業しているという。皆と別れて帰る道すがら、ぼんやりと周囲の景色を眺めつつ、ふと「女子大」という言葉がよみがえり何やら不思議な感じがした。現代においても多く存在する女子高や女子大。今、「女子を集めて教育する」ことにどんな意味があるのだろう?

その昔、女子には学ぶ機会さえなかった。ここに本質と原点が垣間見られるように思う。家庭を含む社会的営みにおいて、古来より女子は男子より下位におかれ、現在もなお、顕著ではなくなったにしても実のところ変わりはない。関西にある、とある大手電機企業では、女子社員に「女子社員の心得」なる冊子が手渡され、そこには「女子社員は男子社員あるいは上長の指示に従うこと」と書かれてあったと聞く。馬鹿げた話に思えるが、これは高々10年前の話である。これを屈辱に思う女子は多くいただろう。当然だ。しかし案外、さほど抵抗なく受け止める女子も少なくなかったかも知れない。

身体の構造を始め、男子と女子に本質的な差異があるように、そもそもとして男子は女子の上位、女子は男子の下位なのではないだろうか?そのような気もする。でなければ、女子教育との名目における女子高、女子大の現存が考えにくい。しかしこの上位下位は優劣を指すのではなく、そこがお互いに求める場所なのではないかとも思える。つまり、表舞台で男子が活躍しているように見えて、実は女子がその舞台を支えているような。(実際、女子にそっぽを向かれたら、男子は身動きできなくなる場合が多い)

一方、ここで話は元に戻るが、男子社会における男子の論理に基づく結果であることも明らかだ。例の彼女を連れてきた旧友は、いみじくもこう言った。

『女子教育』という観念、封建遺制として現代に残る「女子高・女子大」の存在基盤は、どの国家体制でも秩序維持と国家主義、人の営みとしての権力構造と階級分化の志向の具現には必要と考えていると思う。本来、神聖?と言われる(生き物としての当たり前の行為)『種の生産』を勘違いした「女は生む機械」発言はバッシングを受けるだろう。がしかし、「女子教育を充実させる」類の発想は『性と生殖』を女に押しつけている男=男社会という社会構造=世界の殆どの国が持っているだろうね。

同感である。しかしながら
「女子力」へ続く)
コメント
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