恐怖症


D3X + Carl Zeiss Distagon T* 21mm F2.8 ZF

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医者に行くたびに血糖値を測るため採血をする。

右腕をまくり、看護婦さんが腕の根元をゴムバンドで締める。
親指を内側にして手を握るように・・と言われ、肘の内側を軽く撫でて血管が浮き出るのを確認し、そこに達するように針を斜めにグサッと刺す。
すると注射器の中に赤い血液が流れ出る。

握った手を解くように言われ、指の力を緩めると、腕の筋が動く為か、刺さった針の部分に痛みを感じる。
バンドを緩めて、注射器に血が溜まるのを待ち、針を引き抜く。
すかさず針の刺さっていた穴にアルコールの染みた脱脂綿を当てて、上からテープでとめる。
小さな四角い絆創膏を渡され、しばらく脱脂綿を押さえていて、血が止まったら自分で貼るように言われる。

採血の作業を観察していると、大体以上のような工程である。
しかし僕には、自分の腕に針が刺される様子を、真剣になってじっと見つめていることなど到底出来ない。
あまり集中して見ていると、次第に恐怖心が湧いてきて、額に脂汗が浮き出てきて、とても不快な気分になる。
そのためなるべく何も考えずに、てきぱきと腕をまくり、早く終わってしまうように促すようにしている。

飛行機に乗るのは、案外好きな方なのだが、飛行機でも一度同じような状況に陥ったことがある。
それもヨーロッパ内の短い路線を、ひとりで移動している時であった。

その時に限って、じっくりと分析するように、飛行機の着陸時の細かい動きを観察していた。
舵の動きを見ていると、機長の微妙な心理状態までもが伝わってくるようだった。
そのうちに、今ここで機長がミスッたら死ぬのだ・・という事に気付き、急に緊張感に襲われ、気分が悪くなり、汗でぐっしょりになった。
突発的な恐怖症・・とでも言うのだろうか?

どうやらこの現象は、自分以外の人の手に、全面的に運命をゆだねている時に起きるようだ。
自分で車を運転している時などは、こういうことは起きない。
よく考えてみれば、他人の下す判断に自分の命を預けているのだから、緊張しない方がおかしいのだが・・・
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越後屋


SIGMA DP1

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江戸東京博物館には三井越後屋江戸本店の模型がある。

僕は銀座によく出かけるが、銀座に対し金座というのがあったのをご存知だろうか?
どちらも江戸時代に貨幣の鋳造などを行っていた公の組織である。

貨幣は全国的に統一する必要があったため、製造場所も絞り、厳しく管理する必要があったわけだ。
金座は金貨、銀座は銀貨を主に作っており、当然金座の方が位は高かった。
銀座はご存知の通り今でも地名として残っているが、金座は現在の日本銀行本店の場所にあった。
日本橋の三越本店のすぐ裏である。


日本銀行本店(東京都中央区日本橋本石町)

知人に先祖が金座の役人だったという人がいる。
お金にまつわる仕事をまかされていたため、表に出せないいろいろなことがあったようだ。

明治時代になっても江戸時代の生き残りが家族にいて、子孫が三越に勤めると決まった際、越後屋には金を貸していたのに情けない・・と嘆いたという(笑)
また銀座で働くことが決まった親類にも、あのような(格下の)場所で働くのか・・と言ったそうである。
そのくらいの事を言ってみたいものだ(笑)



現在の三井越後屋江戸本店(笑)もとい日本橋三越本店
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家鳴り


SIGMA DP1

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少し前から、時折家鳴りが聞こえて気になっていた。
天井がピシッと鳴ったかと思うと、次は窓枠のサッシの近くで鳴る。
自分の部屋で机に座っていても、目の前の棚の裏からピシッという音が聞こえたり、果ては積んであるオーディオ機器のあたりでミシリと鳴ったりした。

家のあちこちで音がするものだから、地面が細かく揺れているのか、はたまた建物がねじれてきたのかと心配していた。
もしかして心霊現象か?・・なんてことまで考えたが、ほどなく日本各地で地震が発生し始めた。
やはり地中に歪が溜まっていたのかもしれない。

先日は母親の家にいる時に地震に遭遇した。
最新の免震構造だから揺れないのかと思っていたが、P波が到達した瞬間からはっきりと揺れを確認できた。

昨日はたまたま外出している時に地震が発生した。
それもよりによって、古い建物の代表である日本橋三越本店旧館の、地下食品売り場にいる時であった。

オリーブの量り売りをしているイタリアの食材のお店があるので、そこでひとパック買ってきて欲しいと言われていた。
ところがオリーブにも種類がいっぱいあって、どれにしたらいいのか判らない。
仕方なくお店の人にひとつひとつ試食させてもらい、気に入ったものを包んでもらっている最中であった(笑)

家ではかなり揺れたらしく、僕はどこにいるのだろうという話になり、三越の古い建物の地下だということで、慌てて連絡してきた。
大正時代の大震災で被害を受けた代表的な場所なので心配したのだ。
ところが食品売り場はお客でごった返しており、地震が起きたことにすら気が付かなかった。

考えてみれば恐ろしい話ではあるが、長く補強工事をしていたみたいだから、案外丈夫なのかもしれない。
また地下は別格で安全だという人もいる。

確かに地上の建物と違い、地下の場合壁の向こうには土がぎっしりと詰まっているのだから、建造物としては相当強固であろう。
ただし津波で水が流れ込んだり、地上の建物が真下に崩れ落ちたり、暗闇で群集のパニックに巻き込まれたりしなければ・・の話であるが。
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渡良瀬遊水地


D3 + AF-S NIKKOR 70-200mm F2.8G ED VR II

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本日は朝早く起きて、栃木県藤岡町にある渡良瀬遊水地という場所に行ってきた。
渡良瀬川下流に作られた遊水池で、利根川に流れ込む水をワンクッションおくための洪水対策の施設であるが、裏には足尾鉱毒事件の鉱毒を沈殿させる目的もあったという。
広大な土地は、実際には4県にまたがっており、その広さは山手線の内側のほぼ半分の面積に相当するという。
まずは下見のつもりであったが、一応カメラの道具一式も持っていった。

K師匠からお聞きした話では、かなりの人数のカメラマンがここを撮影場所としており、中には渡良瀬遊水地専属で撮っている人もいるという。
実際に行ってみると、ゴルフ、気球、サイクリングなど様々なレクリエーションのエリアがあり、あまりの広大さに驚く。
望遠レンズを構える鳥系のカメラマン数十人の集まる枯野原もあり、何やら中型の鳥が数羽、その中を飛び回っていた。
広大なエリアが自然のままの状態なので、多くの絶滅危惧種を含め、様々な生物が生息しているという。
ある意味非常に贅沢な場所である。

しかしこの季節の真っ昼間に行っても、被写体になるような場所は見つからず、ただ広大で平たい土地の周りを車で走るばかりであった。
近くに住んでいて、朝もやの中や野焼きなど特別な行事を行う日に駆けつけて、撮影できる人たちの場所であろう。
木の生えた場所が少なく一面の葦の野原なのも、僕のように昆虫を撮影することが目的の人には厳しい気もするが、いずれにしても新緑の季節以降に再度来てみない事にはわからない。
今日は車でぐるぐると走るばかりで、写真の収穫はゼロに等しかった。

昼過ぎには渡良瀬遊水地を後にして、昼食は隣の加須市でうどんを食べ、そのまま帰宅した。
せっかくの晴れた日曜日なのに、写真の収穫が無いのは惜しかったので、そのままSIGMAに持ち替えて都内に出た。
しかし夕暮れが近く、そちらもあまり収穫は無かった。
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バッシング


SIGMA DP2

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mixiに様々なニュースに対する個人の意見を、一覧で読むことの出来る機能がある。
日本の自動車メーカーの社長が、某国の公聴会に呼ばれつるし上げにされた時、その記事に対する意見を読んでみた。

興味深いことに、その会社に対して悪く書いてある意見は皆無に近く、ほとんどの人が某国に対し憤りを感じていることがわかった。
車が暴走したと証言するユーザーに対し、やらせであると断ずる意見も多く見られた。
多くの日本人が一致した意見を持つことに驚きを感じた。

今回、そのメーカーの関係会社の工場内で自殺者が出るという事故が起きた。
またmixiで意見を読んでみると、今度は一転して批判的な意見が多い。

驚くのは、実際にその工場で働いている、または働いた経験があるという人の意見が多いことだった。
しかも、社内でのいじめの体質や過酷な労働条件、さらには他にも事故を隠蔽しているという、告発に近い書き込みが散見された。
それらが噴出するように出てくる。
部外者の無責任な意見とは訳が違うので、かなり深刻な状況のように見受けられる。

僕自身、その会社とまったく関係はないし、過去にその会社の車を所有したことさえないので、無責任なことはいえない。
恐らく海外でのバッシングは、意図的に仕組まれたものであろう。
だが一方で、その自動車メーカーにも油断があったのではないかとも感じている。
巨大な企業であり技術的に世界一であることへの驕りが、某国に付け入る隙を与えてしまったということはないのだろうか?

何年か前、某自動車メーカーの幹部の人が、関係会社の人たちと来社したことがある。
ここに詳しく書くことは出来ないが、ある製品の生産を助けて欲しいと頼みに来たのにもかかわらず、その幹部の人が傲慢に振る舞うことに、少なからず驚いたのを覚えている。
関係会社の人たちをあごで使う態度は、それが他の会社の人間にどう映るかという事は頭になく、見ているだけで不快であった。
あれほど製品に対し品質管理を徹底している会社が、人間の管理は出来ないという事実にも失望を感じた。

もちろん本当にトップに立つような人であれば、そのような振る舞いをすることは無いのだろう。
しかし巨大な集団というものは、いかに組織の管理を徹底しようとしても、すべての社員を統率することなど出来ないということだ。

今回の事件は、裏にもっと深い事実が隠されているのであろうし、メーカーとしても、言うに言えなくて悔しい思いをしている部分もあるのだろう。
そういった事情は、20年も経てば明らかになるのかもしれないが、部外者としては、今はただ見守ることしか出来ない。
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SIGMA DP2

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つい二日ほど前、NHKで酒造りのプロの方の仕事ぶりを追う番組を放送していた。
成城石井に買い物に行ったら、早くも番組にリンクして、その方の作られたお酒が店頭に並んでいたという。
何という素早さ。
あらかじめ放映の予定を掴んでいないと、このスピードでの対応は出来ないはずだ。
一体どういう仕組みになっているのだろう・・などと呟きながら、完全にその策略に乗り、山廃仕込を飲んで酔っぱらっている自分がいる(笑)
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十二階


SIGMA DP1

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江戸東京博物館に、巨大な浅草十二階の復元模型があるのを見てビックリした。
昔の写真を集めていると、この十二階には年中お目にかかるので、個人的には良く知っていたが、一般にはそれほど知られていないだろう。
それをよくまあ、こんなに大きい見事な模型を作ったものである。

1890年に開業した浅草十二階は、正式には凌雲閣という名の八角形の塔状の建物で、東京初の高層建築物であった。
当時の低い建物の中で、高さ52m(といわれている)の凌雲閣は別格の高さであり、その素晴らしい見晴らしが人気を呼んだ。
また周辺の様々な場所から望むことが出来、凌雲閣の入った風景写真が多く残されている。
ちょうど東京タワーやスカイツリーのような存在であったのだろう。
考えてみれば、いまだに高さを誇る建造物が人々の関心を呼ぶという現象は実に面白い。

凌雲閣には日本で初めての電動式エレベーターが設置されていた。
しかし故障が多く危険ということで、ほどなく撤去されてしまった。
そのため人々は長い石の階段を上っていかなければならなかった。

八角形の建物は、10階までは総煉瓦造りで、11階と12階は木造であった。
館内には絵画室、音楽演奏室、休憩室などがあり、各階に小さな売店もあったという。
11階と12階は展望室で、有料で望遠鏡を貸し出していた。

開業当初は人気を呼んだが、だんだんと客足が減り、浅草十二階は経営難に陥った。
高さだけが売りの塔は、やがて飽きられるものなのだろう。
しかし寂れてはいても、凌雲閣は浅草の町に威容をさらし続けた。
下の歓楽街は、日本でも有数の「怪しげな場所」である。
その中にそびえ立ち、あちこちの窓から望むことの出来る凌雲閣は、巣窟のシンボルのような存在になっていたのではないかと想像される。

悲劇的な最期が凌雲閣を襲う。
大正12年9月1日、正午前に突然発生した関東大震災で、凌雲閣の上層階が倒壊したのだ。
まだ揺れ続ける大地に、轟音と地響きとともに凌雲閣の上部が崩れ落ちた。
土煙が舞い上がり、傷ついた人々が逃げ惑った。
凌雲閣の展望台には12、3名の見物客がいたが、8階から折れた建物とともに地上に振り落とされ即死、一人だけが途中福助足袋の広告の大看板に引っかかり奇跡的に助かった。

凌雲閣の倒壊は、東京の代表的な建物が受けた被害であり、その変わり果てた姿は、この地震のシンボルのような存在となった。
半壊した凌雲閣の写真は、4万人からの避難民が一箇所で蒸し焼きになった本所被服廠跡の遺体の写真とともに、関東大震災の惨状の代表的な写真として今でも使われている。
経営難の十二階は再建されることなく、陸軍工兵隊の手により爆薬が仕掛けられ、多くの見物人の見守る中爆破解体された。

このように僕は浅草十二階には、何か暗く重いイメージを抱いていた。
だからこの塔の模型を見て、ちょっと驚くとともに、不思議な感動を覚えた。
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不満なし


SIGMA DP2

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スタッドレスタイヤをまだ取り替えていなくて、雪が降ったのでこれは正解であったかと思ったが、積もることなく消えてしまった。
まだ雪の残る山の上に行く機会があるかもしれない・・などと思うが、まずそのような事は無いだろう。

おかしなもので、スタッドレスタイヤで走っていても、けっこうスポーティできびきびと動き、ほとんど不満を感じない。
もちろん上を見ればきりは無いのだが、昔のように、より高性能な走りが欲しい・・という気持ちがまったくわかなくなった。
年齢とともに走りが変化したともいえるが、車に対する気持ちにも大きな変化があった。

今の120iは2007年に購入しているので、もうそろそろ車検なのだが、買い換えようという気持ちは起きない。
不満がほとんどないし、他にもっといい車が見当たらない。
これから故障が起き始めるだろうから、少し不安ではあるが、B社が未だにまともなエコカーが作れないという情けなさ・・・

一方K師匠は、大きめのトヨタ製四駆から、軽自動車の軽い四駆に買い換えられる予定だ。
以前は車の中で眠ることを考え、それが出来る大きさを必要としていたのだが、もうそんなヘビーな使い方はしなくなったという。

近場しか行かないし、燃費も倍くらい違う。
その上実際の悪路走破性も軽いジムニーの方が上となると、取り回しの悪い大きな車にいいところは少ない。
僕も那須あたりに住んでいれば、セカンドカーとしてジムニーが欲しいところだ。
師匠は車をまったく磨かないので、塗装の状態が驚くほどいいと、中古引き取り業者が驚いていたという(笑)

T社の車が米国を中心に攻撃を受けているが、それをそのまま信じている日本人は少ないだろう。
逆にそれが理由で安くしてくれるなら、今が買うチャンスかもしれない。

ご存知の通り僕の以前乗っていたF国のP社の車は、突然全開でフル加速を始めるので、危なくて仕方が無かった。
その事象が発生したら、瞬時にブレーキを踏んで抑え込んだ。

K師匠のお友達の乗られているⅠ国のF社の車も、いきなりエンジンが全開になるそうで、何度修理しても治らないという。
下り坂でそれが起きるとさすがに怖いそうだが、Ⅰ国のものだからこんなところだろう・・と言って乗っているという。

そういう人は案外多いだろうし、みなが訴訟騒ぎを起こせば、えらいことになる会社も多いのではないか?
自動車というのも、ずいぶんとリスクの大きい産業であると思う。
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小指と月光


SIGMA DP1

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海軍に月光という戦闘機がある。

もともとは航続距離の長い双発式の戦闘機、十三試陸戦として開発された。
爆撃機の護衛専用として発案されたのだ。
しかし運動性能に劣り空中戦に弱い双発式の戦闘機は、世界的に成功した例が少なく、中途半端な性能の十三試陸戦も、戦闘機としては使えないと判定された。
やがて偵察機としてなら使えることがわかり、二式陸上偵察機として採用されるが、後により高速の機種に取って代わられる。

この中途半端な双発機を、まったく新しい発想で蘇らせたのは、大胆な行動で有名な小園安名司令である。
手強い米国爆撃機への対策を考えていた小園司令は、敵機の上か下を並行して飛び、斜め方向に機銃を発射すれば落とせるのではないかと思いついた。
そして海軍内に反対意見の多い中、粘り強く交渉を続け、斜め機銃を装備した十三試陸戦を配属することに成功した。

「空の要塞」B-17や「超空の要塞」B-29などの米軍重爆撃機の迎撃は、ジリ貧状態の日本の戦闘機には極めて難しかった。
防弾性能が高く、弾を撃ちつくすまで攻撃を繰り返しても、平気で飛行を続ける。
また高性能な防御火器を備えており、うかつに近付くとやりぶすまのような弾丸の嵐の餌食になる。

しかし新型兵器「斜め機銃」を装備した十三試陸戦は、ラバウルに夜間来襲するB-17を見事に撃墜してみせた。
それを見た海軍はこの新発想の戦闘機を正式採用とし、その名を「月光」と定めた。

月光は斜め上方30度を向け固定した20mm機銃を装備し、夜間来襲する爆撃機の下にもぐり込み、敵機の腹へめがけて20mm機銃を撃ちあげる。
20mm機銃は弾丸が重く、弾道が放物線を描いて落ちていくと一部で不評であったが、当たればその口径ゆえ威力は絶大であった。
その点、至近距離から発射する月光には最適の機銃であったろう。

鈍重で高高度の飛行に向かない月光は、夜間低高度で侵入してくる爆撃機の迎撃専用であったが、日本本土に来襲するB-29相手にかなりの成果をあげた。
一機が一晩でB-29を5機撃墜したという驚くべき記録も残っている。

なぜ月光のことを書いたか。
月光という戦闘機は、我家にとって特別な意味を持つ飛行機であった。

僕の父親は戦争中、月光に搭載するための20mm機銃の弾丸を生産する作業に従事していた。
そして右手を機械に挟まれた。
中指、薬指、小指の3本を斜めに噛まれたのだ。

病院に行くと、医者が小指の第一関節から上を切り取ってしまった。
残りの2本も切るというので、父はそれでは仕事が出来なくなると断り、強引に家に帰ってきてしまった。

ベテランの技術者でも、魔が刺した瞬間、指をやってしまうことがある。
指には神経が集中しているので、指をやると耐えられないほどの痛みに襲われる。
父は痛くて眠ることが出来ず、苦痛に右手を押さえながら、夜の街をさまよい歩いた。
警官から何をしているのかと呼び止められたが、事情を話すと気の毒がり、それでは俺が話し相手になってやろうと一晩付き合ってくれたという。

翌日も痛みは治まらず、じっとしていることが出来ないため、仕方なく工場に出て働いた。
青年であった父の武勇伝が伝わり、新聞社が取材に来て、○○君につづけ、という見出しで新聞に載った。
それが後々までの語り草となり、僕は子供の頃から月光という名前をよく聞いた。

父の短くなった小指の先端は、人からは気味が悪く見えたかもしれないが、僕にとっては親しみのある見慣れたものであった。
それはいわば月光によって刻まれた傷跡であった。

夜間来襲したB-29をサーチライトで照らすと、その下に月光がコバンザメの様にくらい付くのが浮かび上がったという。
月光がさっと離脱すると、B-29が煙を引いて落ちていくのだと、父がよく言っていたのを思い出す。
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昭和館


昭和館は地下鉄の九段下の駅から出たところにあり、皇居の北の丸公園の田安門側入り口に隣接しており、道を挟んだ斜向かいに靖国神社がある。
「戦中、戦後のくらしを後世代に伝える国立の施設」・・である。

建物は近代的なデザインの銀色の塔で、6階、7階が戦中戦後のくらしを展示した常設展示室になっている。
それ以外にも図書室や映像・音響室などがあり、様々な資料を閲覧することができる。
展示物を撮影することは禁止されているので、今回は内部の写真は無いのをご了承願いたい。

常設展示場では、昭和の初期から昭和30年代くらいまでを対象として、人々のくらしに密接した様々な品物が、時代ごとのブースに順を追って展示されている。
また各ブースには、その時代の代表的なニュースフィルムを視聴できるモニタが設置されており、興味深い映像を見ることができる。

まず展示室の入り口では、召集令状や千人針、家族への手紙、遺書など、個人の生々しい展示物が出迎えてくれる。
展示ブースは、昭和12年頃の一般家庭での生活用品の展示から始まる。
日中戦争が始まったが、まだ生活への戦争の影響は強くなく、食べ物もご飯に味噌汁にコロッケなど決して悪くない。
この食べ物は、現在僕に出しているものとまったく変わらないと、Mrs.COLKIDが言っていた(笑)

展示物は、だんだんと戦争の影を感じさせるものへと変わっていく。
食べ物が悪くなるのは、見学者にはわかりやすいかもしれない。
国民精神総動員運動の開始とともに戦意高揚のための様々な手段がとられ、次第に物資や労働力が不足してくると配給制がとられるようになった。
街に貼られるポスターも、皆で国のために・・という内容のものが目立つようになる。

子供の見学者を意識し、学童、学徒の生活の変化も取り上げられている。
団体訓練や学徒勤労動員、集団疎開などで、日の丸の鉢巻を締めて旋盤操作に従事する人形の展示などがある。
個人的にはいまさら驚く内容では無いが、親からその時代のことを聞いた事のない子供の見学者には、それなりに衝撃を与えるようだ。

やがて空襲が本格化し、警備団や国防婦人会、隣組など組織化した庶民の生活や、消火訓練などに関連した展示物が並ぶようになる。
防空壕を簡易的に体験できるジオラマもある。
小さな椅子に座って、爆弾が空を切って落下する音を聞くだけの実に簡単なものなのだが、体験してみると不思議な恐怖感を感じ嫌な気分になる。
もちろん今の技術を使えば、もっとリアルなシミュレーションは可能なのだろうが、度を越して強烈な体験を与えても、ショックを受ける子供もいるのかもしれない。

フロアを下りる階段の途中に、終戦を伝える新聞記事のシンプルな展示があり、それを境に戦後の生活に関する展示に移る。
一面の焼け野原、バラックでの被災者の生活、闇市・・など、ゼロからのスタートとなった日本人のボロボロの姿である。
警察の闇市の摘発の映像では、闇物資を取り上げられて泣き出す年寄りの姿もあった。
名誉の戦死が終戦で一転し、冷遇され生活に困窮する遺族たちの生活、塗りつぶされた教科書を使い青空教室で授業を受ける子供たち、引揚者の中に家族を見つけ抱合う親子の姿・・・

そこから復興に向けて、人々のたくましい生活が展開される。
統制が解除され、大衆娯楽が街に姿を現す。
突然の自由と希望に戸惑い、時にオーバーランする日本人の新しい生活が始まるのだ。
やがて家庭電化製品の普及とともに生活は次第に豊かなものへと変化し、高度経済成長へと続く。




(昭和館のパンフレット)


これらの展示物は、たしかにその時代を知らないものには衝撃として映るのかもしれない。
もちろん僕自身も戦争体験者ではないが、親が戦争について何の話も出来ず、戦争があったことさえ知らない子供たちには、絶対に見せておかなければならないものだ。
こういう時代を経て今の日本があるのだという認識さえ無いのでは、そもそも世界からまともに相手にされないだろう。

東京周辺に住んでいた僕の家族は、まともにこの戦争の被害を蒙ったといえる。
しかし、今こうして日本の辿ってきた道を追ってみると、不思議なほどの戸惑いも感じる。
懐かしさや共感よりも、その異様さに目が行ってしまうのだ。
あの異常な時代は一体何だったのだろうかと、一歩おいたところから、見ている自分に気付く。

もしかすると、時代がひとつの区切りを迎えたのかもしれない・・とも思った。
当事者がほぼ消えてしまったことも、大きな事実としてあるだろう。
そして恐ろしい話であるが、次の区切りに向かって動き出してしまった日本という国も感じた。

たとえば、現在のこの不況を乗り越えるためには、日本人が一致団結して力を合わせていくしかない・・と思っていたが、それは戦争初期に我々がやったことと同じではないか。
まったく同じことを繰り返そうとしているのではないか?
それをわかっていながらも、その時代を生きるものにとっては、それ以外にとる道はなく、時代の流れに翻弄されていくしかない、という恐ろしさ・・・

庶民は、何もわからずにその中に生き、そして死んでいくのかもしれない。
また知識人の大半も、わかっていたとしても、やはり何も変えることは出来ず、ただ口をつむんで生きていくしかないのではないか?
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行ってきました。


SIGMA DP2

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本日は会社は休ませてもらった。
天気は非常に悪かったが、先日ここにも書いた九段下の昭和館に行ってみた。
また何か僕を行かせまいとする障害が起こるかと思ったが、何とか行くことは出来た。

サイトを調べたら来館した小学校の一覧などが出ているので、そういうレベルの施設かと思ったが、行ってみるとかなり充実した見応えのある資料館であった。
靖国神社の向かいということもあるのか、昭和の中でも太平洋戦争前後を意識した展示になっている。

今改めて見てみると、日本という国が異様な歴史を辿ってきた事に気付く。
昭和を生きてきた者としては、ちょっと複雑な気分にもなり、いろいろな意味で考えさせられる資料館であった。
これに関しては別途詳しく書こうと思う。

地下鉄で三越本店に行き、昼食をとり、そのまま今度は両国の江戸東京博物館に向かった。
博物館巡りである。
(写真は江戸東京博物館)

江戸東京博物館は驚くべき規模の巨大な博物館である。
数時間ではとても回り切れない広さであるため、今回は軽く流す程度にした。
しかも展示空間が非常に薄暗く、疲労で集中力が薄れてくる。

先日江戸と昭和があるのに明治、大正が無いようなことを書いたが、あれは間違いであった。
江戸東京博物館というのは、江戸から東京にかけてという意味らしく、江戸時代から明治維新、関東大震災、東京大空襲、さらには我々の育った時代までの、東京に関する展示物で充実していた。
ロケーションが、かの陸軍被服廠跡地の並びであることも意味有りげである。
ここについても簡単には書ききれないので、折を見て書こうと思う。
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過去の記事


SIGMA DP2

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忙しくてここを書く時間が無い・・と書いた。
昔書いた記事で、まだ発表していないものはないかと探してみたところ、保留のままの記事が、ポロポロと10個くらいみつかった。
ほとんどが中途半端に書きかけて、途中で放りっぱなしになっているものだ。
中には1年以上前に書いた記事もある。

ひとつひとつ読んでみたが、明らかに内容が古くて、もう公開出来ないものもある。
何となく公開しないでいたら、時を逸してしまい、今更公開できなくなったものもある。
たとえば母の日に食事した記録など、今になって公開しても意味が無い(笑)

そういう記事を引っ張り出しても仕方が無いので、最近起きたことを思い出そうとしたが、何しろ仕事ばかりで、他にこれといって出来事は無い。
そういえば、伯母の80歳のお祝いに、Mrs.COLKIDがバラ80本の花束を贈ったところ、えらく喜ばれたそうだ。
春なので色は黄色にしたという。
伯母はいそいそと近所に配って歩いているそうだ。
そういうプレゼントは、自分で買うことは無いだろうから、さぞや嬉しいだろうと思う。
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プレジデント


SIGMA DP2

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電車に乗り席に座ると、ひとつおいて隣に座っている老人たちの会話が聞こえてきた。
その声を聞いて、思わず話している男性の顔を見た。
似ている・・・
しかし髪は真っ白で薄くなり、しわの多い頬にはシミがいくつか浮き出ている。

20数年前、僕は都内のとある大手メーカーで働いていた。
大きなプロジェクトに配属され、徹夜が連続する猛烈な職場であった。
プロジェクト長は、脂ののりきった40代後半のAさんであった。

僕の所属するグループはその配下にあったが、グループ長であるB部長は、Aさんより年上にもかかわらず、その配下にされていることが気に入らない様子であった。
プロジェクト長のAさんは少し冷たい感じのする人で、人情家のB部長の方が人望もあった。
しかもAさんは年上のB部長のところに来て、B君、これをやっておいてくれるかな、などと気安く頼むので、他の社員も面白くない顔をしていた。
そのグループにいる僕は、必然的にAさんとは対立する派閥に属する形になっていた。

Aさんは時折僕に「おい、○○君、コーヒーを買ってきてくれないか?」と声をかけた。
「ネスカフェのプレジデントを買ってきてくれよ。他の銘柄では駄目だからね」
Aさんは少し口をとがらせる特徴のある言い方で、そう言って僕にお金を渡した。
僕はエレベーターでビルの一階に下りて、会社の向かいにある酒屋にインスタントコーヒーの瓶を買いに行った。

グループ内の直属の上司たちは、Aさんが僕に直接命令するのも気に食わないようだった。
しかし僕は、Aさんのことを嫌いではなかった。
Aさんは同世代や少し上の社員からは、少々生意気に見えたかもしれないが、かなりのインテリでもあり、飲んで歌うだけの上司よりずっと良かった。

僕が黒澤映画のビデオを持っていることを伝え聞くと、僕の机に来て、七人の侍のビデオを貸してもらえないだろうか・・と言った。
当時黒澤映画のソフトは市販されておらず、唯一フジテレビで放映された時の録画でしか見ることは出来なかったのだが、そのテープを持つものはほとんどいなかった。
「あの映画をどうしても子供たちに見せてやりたくてね」
Aさんはそう言った。

ちょっとした異変が起きたのはその直後だった。
プロジェクトが終了し、新しいプロジェクト発足とともに、メンバーの再編成が行われた。
僕のグループのB部長が新しいプロジェクト長になり、あろうことかAさんは、その配下のチームに配属されてしまったのだ。

失脚・・というわけではなかった。
単に新しいプロジェクトの内容から、そういう編成が組まれただけだと思われる。
しかし社員というのは、ちょっとした配置の変更を真に受けて、自分が出世したと思い一喜一憂する。
今まで上司としての態度をとっていたAさんは、立場がなくなってしまった。
部屋の一番奥にある椅子に、少し笑みを浮かべて座るB部長の前で、直立不動のAさんが「はい・・・はい・・・」といちいち頷く姿を見て、さすがに他のグループ員も気の毒がり、あんな無情な人事があるだろうか・・と噂しあった。

人生にはいろいろなドラマがある。
Aさんは直接僕の上司ではなかったし、同じ部屋で仕事をした期間も短かった。
しかし僕はAさんのことを、その後も時折思い出した。

電車の中の老人は、同年代の老人たちと楽しそうに話していた。
話の内容を聞いていると、日光への旅行の話や、奥さんの田舎の土地の話などであった。
経済への考察が時折混ざる会話は、その辺の老人同士の会話ではなく、かつては大きな会社で活躍した人たちのものであった。

僕は窓ガラスに映る老人の顔をじっと見つめた。
独特の口をとがらせる話し方と、話の中に出てくる聞いたことのある名前から、Aさんに間違いないことがわかった。
「プレジデントを買ってきてくれよ」
そう言ったAさんの声がよみがえった。

よほど声をかけてみようかと思った。
しかし、同年輩の友人たちと楽しそうに話す中に、割り込んでいくのはためらわれた。
それに、恐らくAさんは僕のことを覚えていないだろう。
僕は本を読むふりをしながら、老人たちの会話にしばらく耳を傾けていたが、やがて駅に到着すると先に電車を降りた。
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資料館


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仕事が忙しくて、ここをゆっくりと書く時間がとれない。
今日も先ほど帰ってきたばかり。
日本酒を飲んで、少し酔っ払っている。
小さな音で、マリア・カラスのCDを流しながら書いている。
カラスの声はさすがによく通り、ごく小さい音で再生しているのに、風呂場でお湯に浸かっていると、離れた僕の部屋から歌声が聞こえてくる。

先々週の日曜日、北の丸公園の近くまで歩いて行った時、公演に面した角地に昭和館という資料館があった。
面白そうだと思ったが、バレンタインデーで食事の約束があったため、入り口を見ただけで銀座に向かった。

先週の日曜日、皇居の方から昭和館に向かってとぼとぼと歩いていった。
ちょうど昭和館が見えてきた時、家から電話があり、親戚に不幸があったことを告げられた。
やむなくそのまま前を通り過ぎ、地下鉄の駅から急いで帰宅した。

この前の日曜日、今日こそは昭和館に行ってみようと思っていた。
しかしあの津波騒ぎで、外出、特に地下鉄に乗るのはためらわれ、結局家から一歩も出なかった。

今週は仕事が非常に忙しく、日曜日も出社の可能性が高い。
どうやら行くことの出来ない運命にあるようだ。

昭和館といっても、僕は昭和の人間なので、いまひとつピンと来ない。
昭和の証言者、その激動の時代を生き抜いた人は、今でも周りに大勢いる。
しかし今は平成の世で、昭和は既に懐かしい時代に入るのだろうか?

江戸東京博物館というのが両国にあるが、考えてみれば明治や大正が抜けている。
どちらも非常に面白い時代だと思うのだが、懐かしさを感じる世代は既に少なく、人を集めるには中途半端な時代なのかもしれない。
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早食い


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銀座の交差点近くの地下にある加賀屋で食事をしている時、子供の頃この界隈に食事に来た時のことを思い出していた。
帰りにレジで、ここは昔コックドールのあったビルでしょうか?と尋ねてみた。
さあ、ウチがここにきて9年になりますが・・という返事であった。

「何年位前のお話ですか?」
「ええと・・・そうですね・・・40年近く前です(爆)」

お若く見えますがおいくつなんですか?と聞かれた(笑)

今でもあるが、裏の通りに抜けるトンネルのような道があって、途中にエレベーターがあった。
その道の右側にレストランのコックドールがあった。
お店の奥の突き当りが階段になっていて、そこから2階に上がった。
子供の頃両親に連れられて、時折食事に来たのを覚えている。

当時としては本格的な、正統派のレストランであった。
そこに年配の給仕さんがいて、親切にいろいろなことを教えてくれた。
僕の母親に「この年齢からマナーをしっかりと教えるといいですよ」とアドバイスしていたのを覚えている。

せっかくのアドバイスではあったが、残念ながら人間というものは、食べる時に本性が出てしまうようで、それがなかなか直らない。
僕は子供の頃から早食いで、体に悪いからゆっくり食べるようにとよく注意を受けた。
今でも考え事をしている時など、無意識のうちに食べる速度が上がり、凄いスピードでたいらげてしまう。

Mrs.COLKIDなど、あなたといっしょに食べているとせわしなくて疲れる・・と怒り出すくらいだ。
父親からは、遺言と思って、もっとゆっくり食べるようにしろ・・と言われた。
確かに早食いは、自分の命を縮めているのかもしれない。

しかし仕事上の付き合いのあった、ある会社の社長さんから「君は生き残るよ」と言われたこともある。
その方は大戦中、激戦地から奇跡的に生還しているのだが、小隊でたったひとり生き残り、大隊でも十数人しか生き残らなかった内のひとりに入った。
戦後その生き残りが集まり、会を開いたところ、驚くべきことに全員が異様な早食い・・という明らかな特徴があることがわかったという。

まあ早食いも、有事の時には役に立つのかもしれない。
それともうひとつ、結婚式の写真を頼まれた時にも役に立つ。

料理が出たらバーッと一気に食べてしまい、すぐに席を立ち撮影に専念する。
出された料理はすべて食べながら、ちゃんと仕事もやってのける・・という離れ業を、若い頃は得意としていた。
今はさすがに体調を崩しかねないので、そういう事はやらないようにしているが・・・
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