東京都慰霊堂


東京都慰霊堂は、両国の駅から歩いて数分の距離にある墨田区・横網町公園内にある。
ここはかつて陸軍被服廠があった場所であり、御存知の通り大正12年の関東大震災の際、最大級の犠牲者を出した場所である。

2万坪ほどあるこの広場は絶好の避難場所と思われ、地震発生直後から荷物を抱えた付近の住民が続々と集まりはじめた。
最終的に約4万人が逃げ込み、広場は荷物と人で隙間の無い状態になった。

避難して安心した人々は、当初昼食を取ったり火事の見物をしたりしていた。
ところが予想しなかった火災旋風が発生し、人も物も熱風に何メートルも吹き上げられ地面に叩きつけられた。

逃げ道を失いパニック状態になった人々は、炎の中を右往左往するしかなかった。
熱や窒息で人が次々に死んでいく、その体を踏みつけながら逃げ惑う・・あたりはまさに地獄の様相を呈していた。

最終的に死者の数は約3万8千人にのぼり、広場には折り重なるように遺体が敷き詰められた。
少数生き延びた人たちは、たまたま死体の山の下敷きになった人たちが多く、焼けた上の遺体の脂を全身にかぶり、脂で目の開かない者もいたという。



講堂内の祭壇


震災後、二度とこのような悲劇が起きないことを祈念し、亡くなった方たちを慰霊すべく震災記念堂が建立された。
しかし大震災の20数年後、B29の空襲でまたも多くの犠牲者が出た。
そのため現在は東京大空襲の被害者の霊も合祀されている。

建物は昭和の初期に建てられた講堂と三重の塔からなり、公園内には復興記念館もある。
どちらもそれ自体が歴史的建造物と言えるほど古くて、ひんやりとした暗い印象の建物だ。
僕は昔の日赤の建物を思い出した。
子供の頃はこういう建物が多かったが、最近はとんと見なくなった。
実際この公園も、まわりは近代的なビルで囲まれている。


復興記念館には、溶けた硬貨や吹き飛ばされたトタン板など、震災当時の品々が展示されている。
後の世代にこの悲劇を伝えるべく集められたものではあるが、さすがに時代が流れ意識は風化しつつあるように思えた。
僕自身は吉村昭氏の「関東大震災」を読んだばかりなので、それぞれの展示物の持つ意味を理解することが出来た。
しかし、見学に来た子供たちはすぐに飽きてしまったようだし、若いカップルは笑いながら古い博物館を見物していた。

お年寄りでさえ地震の展示物にはピンとこない様子だったが、東京大空襲の展示の前に来ると急に顔が生き生きとして、同行者にB29来襲当時のことを説明していた。
この二つの大災害には20年以上の時間的隔たりがあり、今や大震災体験者は非常に少なくなっている。
いつの間にかお年寄りとは、明治生まれの人ではなく、大正・昭和の生まれの人をさす時代になってしまったのだ。





たしかに僕も、家族からの伝聞はもっぱら空襲に関することで、関東大震災に関する体験談は少ない。

深川にいた母方の曾祖母は、大震災のもっとも激しい被災地で生き残ったくちだった。
逃げ道などなく、とにかく水をみつけて飛び込んでみたが、お湯になっていて熱くてまた飛び出した・・という話を聞いたが、幼かった僕はリアリティをほとんど感じなかった。
お年寄りの話すことはソフトに聞こえ、はるか昔の出来事のように感じられる。
地方にいた父方の祖母は、翌朝届いた新聞を開いたら「東京全滅」という大見出しが目に飛び込んできた・・とよく話していた。

今更仕方のないことであるが、もっとゆっくりと話を聞くだけの余裕が僕にあれば・・と悔やんでいる。
目の前に時代の生き証人がいたのだ。
気付くのが40年ほど遅かった(笑)

大震災の体験談は、土地のお年寄りからうまく伝わりにくいという話を聞いた事がある。
なぜなら地震発生の周期が人の人生より長く、前の震災の直接の体験者がいなくなってしまうからである。
人々が完全に忘れた頃に次の地震がやってくるわけで、そういう意味では関東は現在かなり危険な状況にある。

少なくとも我々は、あの時何が起き、人が何をしたのか・・を知っておくべきだろうと思う。
同じ失敗を繰り返すほど愚かな事はあるまい。
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