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アランーー思想としての文体(二) 「文体と行動ーー行動としての『プロポ』」

2017-08-14 | 文学
二 文体と行動――行動としての「プロポ」

 「毎日書くこと、天才であろうとなかろうと」――このスタンダールの言葉を、アランは気に入っていた。彼の教えていた生徒達にそれを奨励し、また彼自身、何千という「プロポ」を書いてそれを実践した。
 「紙の空白は、自由な天地である。しかし自分をよく訓練することが必要であるから、私は自分の『プロポ』の定量として、便箋二枚で満足した。私は十四行詩(ソネット)を書く詩人のように、終わるべきところを見定めて、これに従った。発展を引き延ばす必要は極めて稀であった。しばしば発展を圧縮せねばならず、しかも時間が足りないから、後で削ることは望めなかった。こういう物質的諸条件が頗る重要であると、私は思う。・・・・・(中略)・・・・・/私はさらに今一つの条件を指摘しなければならぬ。というのは、短い作品がすぐさまどうにか印刷されると(構成はいつも新聞の方でやった)、翌々日には読まれるということである。その時になって欠陥が見つかっても、訂正するわけには行かない。これは大変幸せなことだ。なぜなら同じテーマについてもう一度やり直し、自分を鍛えることになるからである」(『我が思索の跡』)
 ここで、重要なことは、アランにとって、「物質的諸条件」は、彼の活動を阻むものではなく、必要なものとして、自ら求めたものであったということである。彼は、芸術を論ずる際、素材の抵抗というものを非常に重要なものと見做した。例えば、彫刻家にとって、大理石という素材は、彼の意のままに形を変えてくれることはなく、一撃ごとに抵抗を示す。彫刻家は、彼に抵抗する石材との格闘のうちに、作品を作り上げる。そうして初めて美が現れる。美は作品のうちにしかない。つまり、素材の抵抗の無いところに、美は存在し得ない。便箋二枚という分量、毎日書くこと、十分な時間が無いこと、訂正できないことなどといった「物質的諸条件」は、「プロポ」という散文芸術における、素材の抵抗である。アランの芸術論の特徴は、芸術家達の作品の出来栄えについて論評するものではなく、常に制作者の立場で、創造行為に関わる人間の普遍的な経験について語っているという点にある。それは、日々の「プロポ」執筆の経験から来た思想である。
 そうした書き方から生まれたアランの文体は、一種独特のものである。その文体は、専門用語を使わず、日常の言語で成り立っていながら、決して平易ではない。多義性を持った難解な句や、直観的な飛躍があり、いわゆる美文的な装飾は一切無い。読者は険しい山道を歩くように、躓きながら読むことになる。彼は、散文には散文固有の特質があると考え、聴覚に訴えることを必要とする詩や雄弁と区別して、散文は、眼で読む芸術であり、リズムやテンポは不要であって、時に読者を立ち止まらせる力が必要であるとした。しかし、それは、故意に晦渋に書いて、読者に謎掛けをするという意味ではない。そうした衒学趣味は彼には微塵も無い。彼の文章の難解さは、彼が、困難な問題に臆することなく筆を進めて、その困難を困難のままに書いたところから来ているのである。まだ解決を見出せないと言って筆をおくのではなく、先ず筆を執り、今の自分が採るべき態度を決断しながら、書き進むというのが、彼の執筆態度であり、彼の文体はそこから生まれたのである。
 一挙に解決しないこと、これは彼の方法でもあった。解決できなくとも、先ず書くことによって、問題の困難に潜り込んで考え、また別の日にそれを繰り返し、そうして様々な角度から論ずることで、問題の核心に近づいて行く。「プロポ」の中には、同じテーマを扱ったものが数多く見られる。アランは、彼自身の言葉で言えば「音楽家のように」、同じ主題を反復した。
 ここに、「絶対的真理は絶対に存在しない」という師ラニョーから受け継いだ思想が見られる。この命題は、古くから、懐疑家達によって言われてきたものであり、これに対しては、「しかし、君は『絶対的真理は無い』という『絶対的真理』を信じているではないか」という言い古された反論がある。しかし、そんな言葉遊びは、ラニョーやアランには、何ら関係の無いことである。当然そうした議論は百も承知の上で、この逆説的命題に、新しい意味を与えたのである。懐疑についてアランは次のように述べている。
 「多くの人々が、何事にも確信を持てないという理由で、懐疑に陥っていると言う。だが、臆病と不用意とは剣士を作らない。同様に、絶望は思索家を作らない。何事にも確信が持てない者に、懐疑はできない。彼らは、何を懐疑するつもりなのだ。いわゆる懐疑家達は、実のところ、むしろ、その場限りの信念を抱いているのだ」(『精神と情熱とに関する八十一章』)
 ここから分かるように、アランにとって、思索することと、剣士になることとは、根本的に異なったことではない。こうした考え方は、不安げな表情を浮かべた懐疑家達の思想とは似ても似つかぬものである。いわゆる懐疑家達は、あちらに進もうかと考えては疑わしくなり、こちらに進もうかと考えては疑わしくなり、といった風で、そこには「その場限りの信念」があるばかりで、そのために何一つ疑い抜くことが出来ない。なぜなら、「その場限りの信念」は、その場限りの懐疑しかもたらさないからである。確信が持てないからといって疑うのは、一種の臆病な迷いであって、そこからは何も生まれない。デカルトの懐疑がそうであったように、真の思索は勇敢なものである。
 しかし、剣士にとって、昨日の勇気が今日の闘いに役立たないのと同様に、以前は真理が分かっていた、それだけでは今日の自分の精神にとっては何ものでもない。アランは言う。
 「思想の記憶というものは決して無い、言葉の記憶があるだけだ。それ故、常に新たに証明を見つける必要がある。また、そのために懐疑する必要があるのだ。『苦労こそ良きものだ』と、ある古人の言葉にある」(先に同じ)
 いかなる真理も、置物のように、そのまま所有することはできない。その都度、解体し、構築し直すことが必要である。「絶対的真理は絶対に存在しない」という真理観は、いわゆる懐疑家達にとっては、行動を踏み止まらせるものであるが、アランにとっては、行動へと立ち向かわせるものである。
 そして、この真理観を、アランは執筆という行為によって実践した。以前取り組んで論じ尽くしたテーマであろうとも、必要とあらば、今日も再び取り組もうと、アランは「プロポ」を書き続けた。そして、書く時には、削除・訂正するということをしなかった。たとえ、不用意に拙い表現を書き記してしまったとしても、次に来る表現によって、それを救えばよい。そうすることで、己の愚を克服してゆく力強い思索の姿が現れる。たとえ今日の「プロポ」が失敗に終わったとしても、そこに新たに克服されるべき己の愚を見つけて、「これは大変幸せなことだ。なぜなら同じテーマについてもう一度やり直し、自分を鍛えることになるからである」と言い切る剛毅な姿勢が、そのまま「プロポ」の思想となり、その文体として現れる。アランにとって、「プロポ」を書くペンは、剣士にとっての剣と同じであった。事実、彼は戦場においても筆を執った。『諸芸術の体系』、『精神と情熱とに関する八十一章』を書いたのは、彼が四十六歳の時、第一次大戦従軍中のことであった。そして、ここで重要なのは、彼がそうした外的な制約や困難に耐えながら執筆したというよりも、むしろ、彼の頑強な意志が、それらの外的な障碍を、敢えて求め、そこに己の幸福を見出したということである。これは、意志的な行動によって己の情念に打ち克ち、自由を獲得せよ、という『幸福論』の主張にも通ずるものでもある。
 アランにあっては、執筆態度、文体、思想、行動が、全て同じ「姿」で現れる。「プロポ」とは、彼にとって、思想表現のための単なる一手段ではない。「プロポ」という書き方、その表現の「姿」そのものが、彼の思想であり、行動であったのだ。そして、このあり方こそ、アランの独創性である。


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