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タカオモ――言語生成論序説?

2018-04-02 | 言語

 我が家の長男たかおと次男てつおは、三歳離れの二人兄弟である。次男が赤ん坊の頃のこと。次男のてつおが母親に抱っこされていると、長男のたかおは私に「たかおも」と言って、自分も抱っこしてもらっていた。母親が次男に蜜柑の皮をむいてやっていると、長男は「たかおも」と言って、自分の分もむいてもらうこともあった。私が次男にボールを転がして遊んでやっていると、長男は「たかおも」と言って、自分もボール遊びに加わることもあった。「たかおも」という言葉は、言語の「メタ的な性格」により、様々な場面において通用した。無論、次男より長男の方を先に相手にしてやる場面も多くあったが、赤ん坊の次男の方は何も言わないか、「あーあー」と言うばかりであった。
 そんな次男も少しずつ言葉を覚えていった。あるとき、長男たかおを抱っこしていると、次男てつおが「タカオモ」と言って、両手を広げている。また別の時、長男にボールを投げて遊んでやっていると、次男が「タカオモ」と言って、手を伸ばしている。またあるときは、長男にバナナを出してやっていると、次男が「タカオモ」と言って、バナナをねだった。
 もちろん、次男は幼かったとはいえ、自分はてつおであって、たかおではないということが、分かっていなかったわけでは決してない。ただ、次男にとって、長男が発していた「タカオモ」という響きは、他者と同様の待遇を相手に要求するための記号として聞こえていたようである。たかおが特権的に使えるはずの「タカオモ」を、次男は「メタ化」して、自分にも使える記号にしてしまったのである。言語化された我々にとって不自然なメタ化が、言語以前の世界からやってきて間もない次男によって、行われたのである。それが月日が経つと、「てつおも」と言えるようになり、さらに月日が経つと、「ぼくも」と言えるようになった。おまけに友達の前では「オレも」まで使えるようになった。
 このように、人間の言語習得の過程を考えてみると、「記号とは、何かあるモノを指し示すモノだ」という考え方は、言語の世界に慣れきった我々の錯視であることが分かる。人は、ある欲望、願いを持ったとき、それを満たすための一つの機能として言葉を発するのである。そして、言語の「メタ化」の適切な範囲を、経験によって知っていく。その経験の蓄積の体系が言語なのである。
 そう考えれば、言葉は一語一語、その語を発してきた人々の歴史を背負っていると言えよう。例えば、「秋風」という語は、日本人の歴史を背負っている。ここで言う歴史とは、もちろん年表に表されるもののことではなく、遠い過去から現代にいたるまでの人々の欲望や念願、感性や情緒の堆積のことである。「秋風」という言葉は、単に「秋に吹く風」というモノを指し示す記号なのではない。そこに漂う独特の哀感が、日本人の経験の堆積なのである。

2011年11月

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