アイスクリームが流す涙

本を読んだり、人と会って感じたことなどを書いていく予定です☆

チマ・チョゴリ制服

2007年06月19日 14時23分42秒 | 雑感
在日韓国・朝鮮人のゼミ。
『チマ・チョゴリ制服の民族誌』という制服モノ…じゃなくて、日本の朝鮮学校でどのようにチマ・チョゴリ制服が誕生していったかを当事者のインタビューを中心に調査した本が題材で、先生のお知り合いということで著者の韓東賢さん(今は社会人を経て東大の博士課程に在籍中)もいらして、読書レポートをもとに質問&ですかっしょん。

まず、この本は普通に面白いです。
一瞬だけ変な文章を横切らせましょう。
めんどい感じなので華麗にスルーさせてください。

 韓東賢『チマ・チョゴリ制服の民族誌』は,「民族の誇り・民族性の象徴」と「女性抑圧・差別の象徴」というステレオタイプで語られてきたチマ・チョゴリ制服について,その誕生のプロセスを当事者へのインタビューを通じて検証するなかで当事者の自律的エージェンシーに沿って再解釈したものである。日本社会の同化圧力や差別構造の存在ゆえにチマ・チョゴリ制服という「伝統」へ向かわされたのではなく,帰国運動や教育援助,民族教育事業の強化などが在日朝鮮人社会のナショナリズムを高揚させ,女子学生や教員たちが自らチマ・チョゴリ制服をシンボルとして選択していったことが示されている。
 また,著者は「着衣」という行為が生活に密着したものであり,イデオロギーだけに回収される行為ではないということも述べており,民族性や女性差別といった社会的記号的機能の側面が過度に強調されがちであることを指摘している。この点に関しては,インタビューのなかでも,当事者がチマ・チョゴリについて語るなかで動きやすさや着心地といった側面に少なからず触れていることを捨象せずに,イデオロギーの側面に偏ることや当事者視点を欠落してしまうことを回避している点は言及しておくべき部分だと思われる。

…という感じで(レポまる写しではしょった!)、韓国や朝鮮でも制服になってないチマ・チョゴリが実は生徒や教師の自主的な着用が広まっていって制服化されていった…ということを解き明かしているのです。



あと、よーく考えてみれば当たり前なんだけど、チマ・チョゴリってインパクトがあるから、ついつい民族性を背負っているだとか、女性だけが着させられていて封建的でジェンダーが云々…という話になりがちだけど、そんなイデオロギックな意味しかないわけじゃないんだよという。服なんだから、着やすくて簡単に手に入って、しかもセンスがいいと思われたからこそ、広まっていくわけだしね。追い風としての民族教育の方針との一致だとかはあっても、当事者マインドとしては別の意味もあるわけで。

そういうのって、実はとても大事な視点だと思うのですよ。普段、「民族差別されていて…!」という側面が強調されがちな在日韓国・朝鮮人の人もふつーに日常生活を送っている人間なのだし、人間はロジカルな部分ばかり強調されて言葉が優位性を持ってるように思われがちだけど、言葉ってパフォーマンスの表現方法の一つでしかなくて、ノンバーバルな身体的表現方法(この場合では着衣もそう)と同等に「ある一部分」でしかないわけだよね。そういうところ、普段コトバの世界で生きてると、どうしても抜けおちがちな気がする。

でも日常を考えれば、僕たちはいつも身体を使ってメッセージを発していたり相手を感じているわけで、触れていれば感触や温度を通じて伝わる気持ちがあったり、目でわかりあうことだってできるし、コトバが通じなくたって表情やジェスチャーで通じ合えるわけだから。とってもノーマルだよね。それって。

そんなことを改めて認識した今日の討論。
意識のようなものを研究対象にしようと思っているけど、それは身体と切り離せるもんじゃないってことは重々心に刻んでおこう。

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