歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

みんな“貝”になるな!

2007年08月26日 | 雑談
「・・・私は貝になりたい・・・」先日、見てしまいました。

見ないことにして、一旦は布団の中に入って本を読んでいたのですが、やっぱり気になって起き出し、テレビのスイッチを入れました。9時を10分ほど過ぎていました。

昔、フランキー堺の主演したテレビドラマの断片的な映像が微かに残っています。確か「床屋」だったと思います。

今、調べてみたら1958年(昭和33年)10月31日に放送されていました。50年も前の昔の事で、私が8歳の時です。

それで、ドラマの方ですが、中国人の子供が日本兵に殺されるシーンの最後のあたりから見ました。

ドラマの流れとして、日本人が中国人に対して残虐な行為を行った事を描き、そして、それが、上官の命令であり、直接手を下した兵隊の意志では無い事。

次は、捕虜収容所での、主人公の捕虜に対す「それなりの」配慮をした事を描き。しかし、ジュネーブ協定も何も知らない部下が、脱走した米国人捕虜を撃ち殺してしまう。

主人公は全ての責任を上官である自分の責任として部下を庇い、敗戦後、捕虜を殺した罪により主人公は絞首刑の判決を受ける。

刑執行までの間に、米兵の看守により暴行を受ける事を描き、裁判と云う名の戦勝国による、敗戦国に対する復讐であったという面も描く。

主人公の妹が、「マッカーサー」に「直訴」し終身刑に減刑され、その後の講和条約の成立により、判決後10年ほどで釈放される。


結論は、戦争は、人を「残虐」にし、多くの人を「不幸」にするので、みなさん「平和」を大切しましょう。と云う、毒にも薬にもならないような事です。

戦争さえ無ければ、中国人の子供を殺した兵隊も、米国兵捕虜を殺した兵隊も、日本人の服役囚に暴行する米兵も、本当は良い人で、戦争が「悪い?」

戦争を「計画し指揮」した、指導者は「悪い奴?」で、命令された事を、只「実行」した「将兵」は「悪人」ではない?

そんな「善悪論」で、戦争を反対して「次の戦争」を防げるのでしょうか?

戦争は、勝利した側の指導者は「英雄」で、敗北した側の指導者は「悪い奴」で「犯罪者」だと決めつけてイイのでしょうか?

戦争は、当然、やってみなければ「勝敗」は判りません。やる前の指導者は、英雄でもなく、犯罪者でもありません。

戦争は「悪い奴」が始めると思い込んでいると、始める時の指導者が唱える「大義名分」に騙されてしまいます。

戦争を善悪論で反対しても、「屁の突っ張り」にもならないのです。「悪そうな奴」が出て来たら「気を付けよう」と思ってしまうからです。

悪い奴は、最初に登場しません。負けた段階で「犯罪者」になるのです。

BC級戦犯は「命令」されただけとして、実行した行為を免れるとしたら、次の戦争を「やりやすく」するだけです。

戦争指導者を善悪論で攻撃しても意味はないのです。それでは次の戦争が防げないからです。

戦争指導者の罪は、政策判断として、開戦決定の誤り、戦争終結時期の誤り、その結果として、死ななくても良い人間を、多数死に追いやった罪です。

それにしても、主役の中村師童は「悪党面」です。BC級戦犯に、同情を抱かせないような深い意図が隠されていた? それはないですね。

飯島直子もどうしても「悪い女」に見えてしまいます。それと、主人公の妹役の「優香」の晩年が、何で市原悦子なんでしょうか?

晩年が市原悦子ならば、若い時代は???・・・・・・・う~ん、思いつかない。


このドラマ、キャスティングで失敗しています。


それでは、また明日。 


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