青山通いの終盤、「進捗状況」でカウントダウン(?!)をしながら悪戦苦闘していたL6Pが本になった。早っ!2年以上かかってようやく形になるものもあれば、3カ月で形になるものもある。出版界、恐るべし。
分担の下訳だったのだが、訳者あとがきにも名前が載っていないので、ここで書籍のタイトルを公表していいのかどうかわからない。素直にエージェントに聞けばいいのだろうが、「おやおや、いい年してそんなルールも知らないんですか」とか思われると癪だし。って、こんなことをグダグダ書いていること自体、恥なのかも……。う~む、12月中旬にこっそり先生に聞いてみよう(あっ、先生って、ホラッ、横浜の……)。
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まだまだ翻訳修行中の身なので、下訳を次々とこなして実力をつけていきたい。「下訳ならぁ、上訳者にぃ、最終的な責任をぉ、とってもらえばいいしぃ」などと甘ったれたことは露とも考えていない。単に、実力不足ゆえ、上訳よりも下訳の仕事の方がゲットするチャンスが多いという理由だけだ。けれど、この下訳、実は相当な曲者。他のケースはよくわかないが、エージェント通しの場合、下訳も、額は少ないとはいえ報酬が発生するりっぱな仕事形態の一つなのだが、その仕事が「なかったもの」になることがあるらしい。
実は、先日、翻訳家(者)を目指す人たちを対象とした講演会で、講演者の翻訳家が出版社の用意した下訳を「全く使い物にならない」と酷評しているのを聞いた。偶然にもその案件は自分もトライアルを受けたものだったので、ある意味興味深い話だったが、同時に複雑な気持ちにもなった。
なんでも、翻訳に際して、出版社が頼んでもいない下訳を好意で用意したのだが、その下訳が全く使い物にならなかったらしい。講演では、「お金を払って読者に本を読んでもらうためには、英文和訳では不十分」を説明するための事例としてその下訳が紹介された。指摘された内容は、実にそのとおりで、作品になった翻訳と下訳者の訳文とには雲泥の差がある。前者では、物語がまるで生きているよう。違いがあまりにも決定的で、バックミュージック付きで黄門さまの印籠を見せつけられた気分になった。
しかし、全く使い物にならないと判決を下された下訳を何カ月かかけて一所懸命訳し続けた下訳者のことを思うと、無性に悲しくなった。それに、自分はそのオーディションに落ちているのだから、その下訳よりも下の下なわけで、空しさ倍増。ちなみに、該当の書籍に書かれた訳者の言葉には、下訳者に対する感謝の言葉がしっかり掲載されていた。
さてさて感傷に浸っているわけにはいかない。今目の前にある、わたしが部分的に下訳をした黄色い表紙の本は、一体どうなっているのだろう? わたしの原稿も即ゴミ箱行きだったりして。なんせ、感謝の言葉もかけてもらえないくらいだから、その可能性だってある。
……う~ん、どうやら、即ゴミ箱というわけではないらしい。ちょっとホッとした。ザックザック削除されているのは、訳者の言葉にあるように、「***博士の了承を得て、エッセンス部分を中心に編集してい」るからだろう。
下訳を続けている限り、こういう思いをするのは仕方がないのかもしれない。それが嫌なら、さっさと実力をつけて上訳者になればいい。

