階段を上る、白線内に車を止める、誰かとすれ違う――人は、無意識のうちにこうした一連の動作を行っている。階段を上るたびに「上げたこの足を次はどこに置こうか」などと着地位置を考えるようでは容易に転んでしまうだろうし、駐車のたびに何度も切り返しを繰り返さなければならないようでは車で出かけるのが億劫になる。また、人とすれ違うたびにぶつかっていれば、「スミマセン」の看板を前後にかけてサンドイッチマンよろしく歩いた方が手っ取り早い。いやいや、むしろ外出を控えた方がよいだろう。
こうした動作は、対象物と自分との距離を的確に測ることで瞬時に行なわれる。最近、この「的確に距離を測ること」を難しく感じる――な~んて、ガラにもなくこんなことを真面目に考えるのには大きな理由がある。ちょっと前、崇め奉り続けている例の女史から一発喰らったからだ。「そうですか、(翻訳を始めて翻訳とかかわり始めて)もう5年目になるの……」。……。5年もやっててこれじゃぁ、やっぱりダメっすかぁ。
昔から計画作りは得意だった。「あれができるようになるには、これをやって、あれをやって、それができたら次の段階に移ればいい」――バックスキャンはお手の物だ。あとは実行のみ。翻訳家になるという目標も、計画だけは万全だった。当初の計画どおりにいけば、印税でうれしい悲鳴をあげながら、今年のあさま組の忘年会で師に代わってわたしが大盤振舞いするか、ワード単価20円也のビジネス翻訳でガッポガッポ稼いでいるかのどちらかだったはず。
理想と現実のギャップを目の当たりにして、最近ようやく「計画作りが得意だった」のは妄想だったことに気づいた。たぶん、計画作りそのものを楽しんでいたに違いない。計画を難なく実行して、できないことができるようになった自分の姿を思い浮かべられるのだもの、そりゃあ楽しいはずだ。
なぜ計画を実行できないのか――理由は一つしかない、その計画が無謀だからだ。つまり、今の自分と次の自分との距離をうまく測れずに、自分に負荷をかけ過ぎていたということ。1段抜かしで階段をかけ上ろうと思ったけれど、思い描いたように足が動かず前のめりに倒れ込んだ感じ、といえばいいだろうか。あぁ、こんな簡単なことに気づくのに、どれだけ時間がかかったことか。
例えば、翻訳家になるには英語力が必要だ。その英語力を上げるためのメニューを考える。その一つとして、「今年は仕事関連以外に年間12冊の原書を読もう」と計画したとする(いや、実際、それが今年の計画だった……)。月1冊のペースだから、600ページや700ページといった大物を読もうなどとチャレンジングなことさえ考えなければ、楽勝でクリアできるはずだ。今はもう9月だから、少なくとも8冊は読み終えているはず、だった。
ところが、だ。現実は違う。考えなければならないのは、月1冊が(自分にとって)妥当な数字なのか。「読めるといいな」と「読める」とのギャップが大きすぎるなら、計画自体が破綻しているのと同じだ。1時間で読める量を考えると、決して無理な数字ではない。むしろ、月2冊にチャレンジすべきだろう。
今までなら、「ほらっ、やっぱり計画は完璧じゃん、それなのに実行できない。やっぱりわたしはダメなんだ。だからいつまでたっても受精卵のままなんだ」となるところだが、ちょっと考えを改めた。わたしにはもう一つステップが必要なんだと思う。つまり、「月1冊読む」という漠然とした計画では不十分で、さらにもう一歩踏み込んだ計画を立ててあげなければならない。あ~ぁ、手がかかる。
そこで、「毎日1時間原書を読む」という具体的な計画を立てる。それだけでは不安なので、「ランチのときには必ず原書を読む」ことにする。ランチは(たぶん)必ず食べるものだから、こうすれば原書を読むに違いない。1時間が無理なら、30分でもいい、そうだ、「ランチのときには必ず30分間原書を読む」にすればいい。実行できたら、スケジュール帳に花丸でも入れよう。
あぁ、手がかかる。ここまでビジョンを砕かなければならないなんて、本当に手がかかる。でもね、いくら手がかかっても、計画が実行できるのなら万々歳だ。