思うこと

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「1Q84 book1~book3」  村上春樹

2013年08月17日 21時57分57秒 | 日記

昨年book1とbook2が出た時、クラスの生徒や保護者向けの通信にその感想を次のように書いてみた。

「★舞台は1984年の東京。スポーツジムの女性インストラクターである「青豆」は、ある日、今と少し異なる世界1Q84年へ。青豆は、実はDV被害者の夫を殺すことを引き受ける殺しのプロでもある。そして予備校の数学教師をしている「天吾」は、小説も書いているが、編集者である小松から、「ふかえり(深田絵里子)」という十七歳の少女が書いた「空気さなぎ」という小説の書き直しを依頼される。天吾はふかえりと会った。不思議な女の子。「空気さなぎ」もまたとても不思議な物語である。そこにはリトル・ピープルという異世界の小人が現れる。物語は青豆と天吾の話が交互に描かれる。二人ともとても〈悲しい〉過去を持っている。二人は小学校の時少し一緒で忘れられない体験をする。ふかえりは父深田保の友人に育てられるが,深田保は「さきがけ」というコミューンを作った人物である。「空気さなぎ」はベストセラーになり、青豆は「さきがけ」のリーダの暗殺を手がけることになる。最後の場面で天吾と青豆は極近くまで接近する。けれども青豆は…
★超話題の村上春樹の新作です。1.2とあり、もう二百万部ぐらい売れていると思います。村上春樹と聞くと、時代の感覚を最も鋭敏に表し、世界にもファンはすごく多い作家だけれども、読んでみると何だかよく分からないという感じのする人は多いと思います。実は私もその一人で以前の「羊をめぐる冒険」や、あの「ノルウェイの森」も今ひとつよく分かりませんでした。今度も同じかなとイヤ?な予感はしていたのですが、話題作なので読みました。第一印象を言うと、その予想に反して割にわかりやすいという気がしました。もちろん何か得体のしれない村上ワールドという感じは強いのですが、さっぱり分からぬという感じはあまりしませんでした。へえっ、村上春樹の小説ってこんなんだっけという感じもしました。話は右にも書いたようにそれぞれ〈重い・悲しい〉過去や現実を背負った二人の登場人物「青豆」と「天吾」の話が交互に語られていきます。「ふかえり」という奇妙な女の子、そして彼女が作った、またこれも奇妙な小説「空気さなぎ」。最後はそれぞれが絡み合っていくのですが、話の背景にかつてのオウム真理教をモデルにしたと思われる宗教団体めいたものが出てきます。「青豆」と「天吾」はどうなっていくのだろうという興味に引きつけられ、後半になればどんどん読むスピードも上がっていきます。「青豆」と「教祖」の会話はなかなか興味深かったです。高級な推理小説という感じがしないわけでもありません。そしてまた村上春樹の小説を読むといつも感じるような絶対的な寂しさみたいなものがやはりこの二人にも始終感じさせられました。最初は、話の筋に関係ない(と凡人の私には感じられる)ことに始終筆が及び、またかなり露骨な性描写が、やたら〈無機質〉に、やたら〈あっけらかん〉と出てくるので少々辟易としたのも事実ですが、大変面白かったです。多くのことが謎のまま終わっています。また3.4と続編が出るのではないかと言われていますが、読みたいなあと思っています。」
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 そして今回book3が出たのでもちろん早速読んだ。book3では誰しも分かる通り、「ふかえり(と『空気さなぎ』)、宗教団体「さきがけ」、「リトルピープル」などは後景に置かれる。秘密めいたこれらの正体?がbook3で明かされるのではないかと期待したのは私だけではないだろうが、それらはあまり言及されない。その代わりに前景に出てくるのは、天吾と、そして彼にいつか会えるとひたすら一度だけ表れた公園の滑り台を眺め続ける青豆、さらにbook3では、それまでさほど重要視されなかった、「さきがけ」側の人間で、青豆の行方を追う「牛河」なる人物に大きく焦点が当てられる。この三人の物語が順繰りに述べられる。他の人も同様(だと思うが)、私もbook3で重要な位置を占める「牛河」を「はて、誰だっけ?」と思い、1.2のストーリーを反芻してみた。さきがけの依頼を受けて、青豆の行方を追う「牛河」。彼の体躯・形相は異形である。〈曲がった足、短足、顔の相が極度に歪み、頭が大きく背が低い「福助頭」〉で、特異なその姿は一目で印象に植え付けられる。
 さてbook3の感想だが、1.2よりもっと分かりやすいと言えば分かりやすい。ストーリーもシンプルと言えば極めてシンプルである。お互いなかなか会えない天吾と青豆。特に青豆は天吾に会うことが全てのように描かれる。「さきがけ」のリーダーを暗殺し、追っ手に決して分からぬようマンションの一室に保護され、籠る。その窓からは天吾が座っていた公園の滑り台が見える。青豆は信じる。「きっと、必ず、絶対に天吾は再び戻る。私は天吾に会える」と。天吾は絶対性を帯びる。天吾もまた青豆を強く意識する。そして青豆を追う牛河は最初どうしても分からなかった二人の関係を執拗な調査の末、同じ小学校の同級生であったことを探り当てる。
 book3は三人のドラマに違いない。そして三人に共通しているのはもちろん「寂しさ」だ。陳腐な表現だがそう言うしかない。両親が宗教団体『証人会』の信者で、それ故に青豆は幼い頃より「信者の子ども」としての振る舞いを宿命づけられ、小学校では孤立し、激しいいじめに遭う。誰とも繋がらない青豆。その中でふとした事で十歳の時に手を握り合った天吾とはどこかで繋がると信じている。天吾もまた悲しい家庭に育つ。母は天吾が生まれてすぐに死んだと聞くが実態は分からない。そしてNHKの集金人として余りにも朴訥にその使命を果たして来た父親に日曜日毎にその仕事に同行させられる。その父は今病気で意識がない。病院で天吾はもの言わぬ父親のベッドの横で本を読んであげる。牛河もまたどうしようもない「寂しさ」を引きずっている。弁護士資格を持ち極めてシャープな頭脳を持ちながら、彼は家族に見捨てられている。妻にも娘にも見捨てられた。悲しむ気力も萎えるような関係の断絶に絶望している。
 book3は「寂しい」三人のとても切ない悲しい話だ。けれども村上春樹は彼らを救う(と私は思う)。なかなか会えない青豆と天吾は最後の場面できっと出会うのだろうという予測は容易に立つ。会えないまま終わらすことは絶対にないというのは読み始めてすぐ想定できる。どのような会い方をするのかということだけが興味の対象となる。そして物語はその通り進む。
 これもまた陳腐ないい方で実は気が引けるが、作者はbook3で全ての人物を救おうとしたのだと私は思う。なんという浅薄な理解という人も入るだろうが私は断固としてそう思う。福助頭の牛河さえも救われたと、私は思う。なるほど牛河は物語の中で、青豆を保護していた「タマル」に殺された。それも激しく苦悶の表情を浮かべながら死んでいく。「家族」に完全に見捨てられた異形の「牛河」の最後。彼には救いはないではないか、とも思えるが、私はそうではないと思う。牛河は最後にタマルによって〈理解〉されたのだ。タマルによって牛河の魂は救われたと言えなくもない。そして希望通りNHK集金の服を着せられて葬送された天吾の父親もまたその魂を救われたと言ってよいと思う。天吾と看護師の安達クミによって。
 book3の最後の場面で想定通り、青豆と天吾はついに再会を果たす。1Q84から1984へ再び戻り、彼らは一つに結ばれる。どのように描かれるかが興味のある所であったが、そんなに大芝居がかった感じではない。しかしこのシーンは確かに美しい場面に違いない。会いたいと切望していた、どうしても会えない二人が最後に会うことが出来る…。この超単純と言えば超単純、どこにでもあるといえばあるような、こうしたストーリー展開は、実は近代文学史上ありそうでなかったのではないか。如何に月並み、如何に陳腐と言われようがこの小説は「天吾と青豆の〈愛のストーリ〉」に違いない。
 やっと出会えて互いの愛と存在を確かめ合った二人は今後どうなるのだろう?このあとどうすんの?というような野暮な質問はよした方が賢明である。
 さてこの小説をそうした「愛の物語」と捉えるとして、やはり疑問に残るのは、青豆と天吾の出会いに、book1.2で展開されていった、「ふかえり」や「空気さなぎ」「さきがけ」そして謎めいた「リトルピープル」の布置は必要なのかということである。こうした謎めいたものはどういう意味を持つのかということである。前述したようにこれらはbook3では遠景に置かれる。リトルピープルの存在も謎におかれたままだ(と私には思われる)。そして究極的にはやはり二つの月を持つ1Q84とは一体何なのかという疑問がある。天吾と青豆の出会いにこれらは必須のものなのかということである。言い換えればこうした背景を抜きにして、二人の「愛の物語」は成立しなかったのだろうかという疑問である。
 私の答えから言えばそれはやはり必要なのだということである。
話は少しずれるが、宗教団体「さきがけ」は誰が読んでも明確に分かる通りオウム真理教を意識したものに違いない。社会を大きく揺るがせた狂気の宗教集団、地下鉄サリン事件等を引き起こした稀代の犯罪集団(と誰しも言う)、あのオウム真理教である。教祖麻原彰晃は逮捕され、かれらの実態はある程度白日の下にさらされ、それはそれで何も言うことはないが、その時いつでも私が思うのはあの宗教団体に参加した多くの若者達のことである。超エリートで将来を嘱望されるような多くの若者達がなぜあれほど熱狂的に入信したのか(徹底的に解体された後でも現在も同系統の団体に入信している者もいる)ということである。彼らは人一倍真面目な感じが私は当時もした。即物的な判断で気が引けるが、やっぱり彼らはこの世の中で(どこかで心の痛手を負い)(とても寂しくて)(人と繋がりたくて)(何かを信じたくて)入信したのに違いない。稀代のペテン師と言われようが教祖の言葉は彼らに届いたにちがいない。それは歴史に残る犯罪に手を染める瞬間でも、彼らの〈救い〉であるに違いなかった。そして青豆もマダム(老婦人)もタマルもある意味犯罪者であり、そしてオウムの信者達と同様いいしれぬ寂しさを所有している。もちろんオウムの信者の実態など何も知らないので、同様に扱う気は全くないが、どこか両者には似通ったような点があるのではないかと思うのは私だけだろうか。
 「正義」の為と、無実の人々を無差別殺戮に追いやった信者達はサティアンの中で(中だけで)仲間の者との繋がりを実感したのかもしれない。家族の面会すらも拒否していた彼ら(つまり家族との繋がりさえも実感できていなかった彼ら)は牛河や青豆と似ていなくもない。かれらはサティアンの中でリトルピープルの姿も見ていたかも知らない。あるいはサティアンから見る月は二つだったかもしれない。ただ洗脳されただけだと嘲笑するのはたやすい。しかし彼らの親(つまり我々の親、或いは我々自身)は洗脳さえ出来ない。そして家庭はサティアンより勝るだろうか?それが現在という時代の本質だ。
 もちろん私は1Q84の世界とオウム真理教の姿が一緒なのだという気はないし、そんなことを言えば作者に、あるいは他の読み手に一笑に付されるだろう。
 先の問に戻ろう。青豆と天吾の出会いと愛にふかえりや空気さなぎやリトルピーピル、1Q84の世界は、やはり必要なのだ。やっぱり1Q84を通過しなければ、彼らは救われなかったのだ。
 この小説に出てくる人々は余りにも寂しすぎる。あまりにも深い傷を負いすぎている。そして当然それは私達の姿でもある。そうした人達は一体どうして救われるのか、そもそも救いはあるのか?村上春樹はそれに答えようとしたのでないか。私達は月が二つある世界でないともはや人と繋がることの出来る〈契機〉を所有できないのかもしれない。
 〈寂しい魂を持った〉青豆と天吾(つまりそれは今の私達)は最後には会わなければならない、でもその為にはは何が必要か、まずそうした命題からこの小説はスタートしたのではないか。book3を読んでそう思わされた。それが如何に稚拙な理解であってもである。


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