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CNDシスターズエッセイ39 真理は人を動かす シスター兼松益子

2017年01月12日 | 日記
 

 調布教会でレクチオ・ディヴィナをしています。1月5日(木)に、次の日曜日の福音書を読みました。マタイ2章1~12節のご公現の聖書箇所でした。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」「喜びにあふれた」「彼らはひれ伏して幼子を拝み」と、参加者一人ひとりが心に響いたみことばを3回繰り返しました。私は「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」というみことばを繰り返しました。


 私は、東方という今のイランからベツレヘムに旅をするということが、どんなに大変で、すごいことかと、まず思いました。当時は鉄道があるわけではありません。高速道路も、舗装された道もあるわけではありません。道なき道を、ある時には砂漠を通って、3ヶ月以上かかって、ラクダに乗って(映画「マリア」によると)旅をするということでした。占星術の学者にとっては、そこまでしても出かけたい旅でした。
 「星を見た」というその星は占星術の学者として見逃すことができない星、人がめったに出会うことがない星、天文学を極めて見出した真実の星だったのでしょう。真実・真理は、たとえどんな困難が予想されても、人を動かすのだと、次に思いました。そして、占星術の学者たちが王に対して拝むという姿勢をとったように、真理に出会ったときには、人は頭を下げて身をかがめことができるのだと思いました。真理は人を謙遜にするのだと、最後に思いました。

 私たち一人ひとりの中にも、占星術の学者たちのような歩みがあるのではないでしょうか。人生を歩んでいて、かすかであっても、何か心から消すことができない出来事に出会うと、ずっとその出来事を温めます。その出来事の意味や背後にあるものを思い巡らします。そして、それが真実・真理だとわかると、どんな困難があっても、たとえ道のりが遠くても乗り越えていきます。不思議と困難を乗り越える力が与えられます。そして、ある人は洗礼を受けたり、修道生活に入ることを決断します。洗礼も修道生活も、人を神の前に生きる者として真実な位置に立たせてくれます。そう考えると、東方の占星術の学者たちの歩みと私たち一人ひとりの歩みを、何らかの形で重ねることができるのではないかと思います。

 そして、ふとエディツト・シュタイン(1891~1942)のことを思い出しました。ドイツでユダヤ人として生まれ、ユダヤ教の中で育ったエディツトが、やがてカトリック教徒になっていく道のりはエディツトの内面においても、また家族との関係において決して容易なものではありませんでした。まして修道会(カルメル会)に入会する道のりは困難をきわめました。ユダヤ人が迫害に苦しんでいる時期に、エディツトがカルメル会に入会するということは、ユダヤ人との連帯を断ち切ることにも思われました。それは、東方から来た占星術の学者たちの道のりのように厳しく、困難なものでした。しかし、真理はエディツトを動かし、カルメル会に導きます。そして、最後に、カトリックのユダヤ人修道者が逮捕されるときには、エディツトは「行きましょう。わたしたちの民のために」ということばを残し、最後にはアウシュヴィッツの強制収容所で亡くなります。エディツトの凛とした姿を思うとき、神様は一番ふさわしいところに、その人が真実を、真理を生きることができるように導いてくださるのだと、神様の奇しき計らいを味わい直しました。 

                      コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会  兼松 益子

ベツレヘムの星:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%84%E3%83%AC%E3%83%98%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%98%9F#/media/File:Giotto_-_Scrovegni_-_-18-_-_Adoration_of_the_Magi.jpg
エディットシュタイン:http://www.adorazioneeucaristica.it/scrittisantagemmagalgani.htm さんより
雪の結晶:http://www.quon.asia/yomimono/culture/word/2009/01/17/1406.phpさんより



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