釣魚執法

(四川省を南北に流れる大河、岷江〔みんこう〕。これは成都の南にある楽山市内を流れる岷江で、更に南に流れて長江に合流する。)

  ホテルの部屋に戻ると、いつも机の上にその日の朝刊をサービスで置いてくれていました。確か『成都都市報』という新聞だったと思います。

  滞在中、いつも『成都都市報』の一面を飾っていたのは、上海で起こった「釣魚執法」事件でした。

  とはいえ、私が読み始めた時点では、すでに事件は「追跡報道」の段階に入っていたようで、記事を読んでも、事の発端は何だったのか、事件の詳しい内容はどういうことだったのか、あまりよく分かりません。ただ「『釣魚執法』事件について、上海市公安当局が謝罪した」、「白タク行為をしたとして逮捕され、罰金刑を受けたショックで自殺未遂をした○○さんが退院し、取材に応じた」とか書いてあるだけです。

  「釣魚執法」とはたぶん、いわゆる「おとり捜査」のことなんだろうと思いました。おとり捜査については、日本でもその合法性をめぐって議論が起きたことを覚えていましたから、中国でも同じ議論が起きているのだろう、ぐらいにしか考えませんでした。

  成都から東京に帰る飛行機は北京を経由します。北京空港で出国審査を受けて再び飛行機に乗り込んだら、機内サービスの新聞に北京の新聞がどっさり加わっていました。その中の一つ、『新京報』を取って読みました。

  『新京報』の中に、上海で起きた「釣魚執法」事件の顛末から背景に至るまでを詳しく説明した記事がありました。それでようやく、「釣魚執法」の詳細な内容が分かったと同時に、その背景は私が考えていたよりも深くて複雑なこと、日本における「おとり捜査」論争とはまったく異なることが分かったわけです。

  そもそもは、上海市が白タク(中国語では「黒車」という)の取り締まりを強化するにともない、白タク行為の通報者に500元の報奨金を出すという制度を導入したことが発端でした。

  500元といえば、都市住民の平均月収の3~4分の1くらいの額ではないでしょうか?いずれにせよ大金です。報奨金制度の導入は功を奏し、白タクの検挙率は格段に上がりました。が、この制度によって奇妙な現象が起こりました。白タクを通報して得た報奨金を主な収入源とする一群の人々(「鉤子」=釣り針)が生まれたのです。

  白タクは検挙されると、車を没収される上に高額の罰金も科せられます。白タクの運転手たちは自衛策を練りました。それは、「見知らぬ人間は乗せない」というものでした。

  もともと、上海の白タクのほとんどは、上海市の中心を外れたところで商売をしていたのです。上海市近郊・郊外は交通の便が悪く、公共の交通機関がほとんどない地域も多いそうです。村なんかだと人の通りも少ないですから、上海市の正規のタクシーは、商売にはならない郊外の村々には流しに来ません。

  そんな郊外の村の人々の「足」になっていたのが白タクだったそうです。白タクというと「ぼったくり→悪い人たち」というイメージを抱いてしまいますが、交通手段に困っている郊外の村の人々にとってはありがたい存在だったのです。

  白タクの運転手たちには、それぞれ顔なじみの「顧客」たちがいました。その「顧客」たちから電話がかかってくると送迎に馳せ参じる、というわけです。報奨金目当ての「鉤子」たちによる通報を防ぐために、白タクの運転手たちは、自分の「顧客」たち以外の人間は乗せない、という防衛策を講じました。

  白タク運転手たちのこの防衛策も功を奏しました。白タクの検挙率は徐々に下がっていきました。最も焦ったのが、白タクを通報した報奨金で生活している「鉤子」たちです。以前のように白タクを通報して報奨金をもらうことができなくなった「鉤子」たちは、報奨金制度を導入した上海市公安局の思惑を超えて、あらぬ方向に暴走し始めました。

  そしてとうとう、中国全土の新聞の1面を長いこと賑わすことになる「釣魚執法」事件が起こりました。

  上海市郊外のある地域で、一般市民の青年が帰宅のために自家用車を走らせていました。すると、路上に1人の男性がいて、青年に向かって手を振り、車を止めてくれ、という仕草をしました。青年が車を止めると、その男性は、タクシーもバスもなくて困っている、途中まででいいからあなたの車に乗せてくれないか、と青年に頼みました。

  青年は気の毒に思って、その見知らぬ男性を自分の車に乗せてやりました。しばらく走ると、男性は車を止めてくれるように青年に言いました。そして、青年の車を降りる際に、運転席に向かってお金を放り投げました。青年は親切心から乗せたまでであって、金を取るつもりなど毛頭なかったので、驚いて男性を呼び止めました。しかし、男性はそのまま姿を消してしまいました。それと入れ替わりに、公安警察が姿を現し、白タク行為の現行犯で青年を逮捕しました。

  青年は乗用車を没収され、罰金を科せられました。青年は工場労働者でした。騙されて「犯罪者」にされたことがショックなあまり、青年は逮捕された翌日、職場の工場の昼休みに、衝動的に自らの手首と首を刃物で切って自殺を図りました。気づいた同僚がすぐに青年をはがいじめにして制止し、青年を病院に搬送しました。

  この事件はマスコミに一斉に取り上げられて大ごとになりました。一般市民を罠にかけて騙してまで、白タク行為をしたとして検挙摘発し、結果、「白タク運転手」とされたその市民を自殺未遂にまで追い込んだことによって、上海市公安局は非難の集中砲火を浴びました。

  中国全土のマスコミの連日にわたる報道と非難の大合唱に、ついに上海市公安局は、今回の「鉤子」による「釣魚執法」は適切でなかったことを認め、公式に謝罪しました。これが「釣魚執法」事件の顛末です。

  しかし、と『新京報』は続けます。白タクの存在の背後には、市中心と郊外の「交通格差」があり、また白タクの運転手はもともと上海市民でなく、地方から上海に出かせぎに来た元「農民工」が多い。そして、白タクの通報を生業にしている「鉤子」たちには「下崗(シアガン)」した人々が多い。

  「下崗」とは国営工場や国営会社を解雇されて職を失うことを指します。改革開放政策の導入にともない、多くの国営工場や企業が閉鎖・解体され、大量の「下崗」者を出しました。彼ら「下崗」者は自力で次の仕事を見つけなければなりませんでした。運良く仕事を見つけられたとしても、そのほとんどは以前よりもはるかに労働環境のよくない、収入の低い仕事でした。失職したままの「下崗」者も存在します。

  一方、これまた改革開放政策にともない、地方の農村から大都市に出かせぎに来る人々が大量に出現しました。彼らは「農民工」と呼ばれています。しかし、農民工が都市で働いたとしても、その仕事のほとんどは肉体労働です。食うのに精一杯でなかなかお金がたまらない。一部の農民工は早々に肉体労働に見切りをつけ、もっと稼げる仕事を探して転職します。でも、彼らは都市戸籍を持たないために、実入りがよい仕事に就くことは非常に難しい。

  今回の「釣魚執法」事件で逮捕されたのは一般市民でしたが、発端となった「白タク」の運転手の多くは農民工だそうです。彼らはなぜ正規のタクシー運転手にならないのか、なぜリスクを冒してまで白タクをやるのか。それは、上海市の規定では、上海市の戸籍(「戸口」)を持っていない者、上海市の中心に自宅がない者は、正規のタクシー運転手になれないからです。

  そして、悪質な手段で一般市民を犯罪者に仕立て上げた「鉤子」は、かつては国営工場もしくは国営企業で働いていた労働者で、やがて失職して、生活のためにカネになる仕事ならなんでも飛びつく、なんでもやる人間になってしまった人でした。

  上海で起きたこの「釣魚執法」事件は、現代中国の社会問題の代表である「農民工」と「下崗」者が、皮肉にも敵対する者同士として関わっていた事件だったのでした。しかも、彼らはいずれも改革開放政策にともなって現れた人々です。上海郊外での白タクと白タクの摘発が、最終的には中国の国策である改革開放につながるなんて、と問題の根の深さに呆然とする思いでした。 
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