どうしたボリショイ3


  今回のセルゲイ・フィーリン襲撃事件は世界中で大騒ぎになったが、これまで報道されてきた内容を雑誌『WEDGE』のウェブ版がまとめてくれている( ここ )。

  フィーリン襲撃を提案したのがドミトリチェンコではなく、実行犯の男のほうからドミトリチェンコに話を持ちかけてきたというくだりを読んで、やっぱりな~、と思った。

  今日、フジテレビのワイドショーでも、フィーリン襲撃事件のことを紹介していた。直近のフィーリン、パーヴェル・ドミトリチェンコの映像、そして事件の発端となったとされるボリショイ・バレエの若手ダンサー、アンジェリーナ・ヴォロンツォーワの映像が流された。

  フィーリンの顔は意外にきれいで、少し赤みが残って腫れがみられるものの、別人のように変貌したということはない。髪の毛は処置のために短く刈られてしまったらしい。頭に網状のガーゼの医療用キャップをかぶっており、その下に短い髪と地肌が見えた。

  この映像でのフィーリンはサングラスをかけていなかったのだが、報道されているように、両眼はまだ見えにくいようだった。でも、まったく見えないというわけではないと思う。視線がはっきりしていたから。

  フィーリンの映像よりも、裁判所の法廷に引き出されたドミトリチェンコの映像のほうがよっぽどショックだった。手錠をかけられ、髪はぼさぼさで額に垂れ下がり、青白い顔、頬は痩せこけ、目の下は隈で黒ずみ、生気のない表情で小声で話していた。

  ワイドショーだけに情報ソースが示されなかったのだけど、この番組によると、

  ドミトリチェンコは去年の11月、確かに実行犯の男にフィーリンを「襲撃」するよう依頼したのだが、それは「頭をポカリと一発殴ってやれ」と言っただけで、しかも報酬は渡していなかった。

  このとき、フィーリンへの「襲撃」は結局行なわれなかった。ドミトリチェンコも襲撃を依頼したことをいつしか忘れてしまっていた。

  それが、今年の1月にフィーリンが顔面に硫酸をかけられる事件が起きた。ドミトリチェンコは、ボリショイ・バレエの団員の会話からその事実を知って驚いた。自分に疑いの目が向くことを恐れたドミトリチェンコは、依頼した男たちに金を払って、去年の11月に自分が頼んだことを言わないよう口止めした。  

  ドミトリチェンコは、フィーリンを襲うよう頼んだこと自体は認めているが、硫酸をかけるよう指示したことは一貫して否認している。

  また、ドミトリチェンコはボリショイ劇場内で行なわれている不正を告発しようとしたとも供述している。

  ボリショイ劇場のイクサーノフ総裁は、ドミトリチェンコが逮捕された後も、「黒幕はまた別にいる」と述べた。

  と、大体こんな内容だった。

  この報道内容そのものが本当なのかどうか疑わしいのだが、あくまでこの報道によれば、最も不思議なのは、去年の11月にフィーリンを襲撃するよう依頼したことを、当のドミトリチェンコ自身がすっかり忘れていた、という点である。

  他人を、しかも自分が所属するバレエ団、しかも天下のボリショイ・バレエの芸術監督を襲撃するよう頼んだことを忘れていたなんて、そんなことがありうるだろうか。

  また、ドミトリチェンコの供述によると、襲撃を依頼した去年の11月の時点では、実行犯の男たちに報酬を渡していないという。今年1月の事件発生後に支払われたカネは、ドミトリチェンコの認識では、襲撃への「報酬」ではなく「口止め料」だったことになる。

  この報道内容が本当だとすると、また『WEDGE』によると、こういうことなのかもしれない。ドミトリチェンコは実行犯の男からフィーリン襲撃を提案され、軽いノリで「フィーリンを一発ぶん殴ってやれ」と口にしただけのつもりだった。冗談半分で言ったことだったので、その後はすっかり忘れていた。

  ところが、フィーリンが硫酸を浴びせられるという重大事件が起きてしまった。自分の以前の言葉を思い出したドミトリチェンコは、慌てふためいて襲撃を依頼した男たちに口止め料を払った。でもそれは自分の起こした犯罪を隠すためというよりは、身に覚えのある自分が疑われて、主犯に仕立てあげられることを恐れたからだった。

  こう考えるとつじつまが合うように思える。不正告発うんぬんの件だが、これはドミトリチェンコが場当たり的に発した自己弁護の言い訳だろうと思う。自分だけが悪いんじゃない、フィーリンだって芸術監督の立場を利用して悪いことをしている、と言いたいのだろう。

  ドミトリチェンコは知的で優秀なダンサーだと思ったけれども、一連の言動からみると、プライベートではかなり軽率で行き当たりばったりな行動をとる人物のようだ。

  でも、ドミトリチェンコはやっぱり利用されたんじゃないかな。実行犯の男にドミトリチェンコを唆させ、ドミトリチェンコの冗談半分の「襲撃依頼」にうまく乗っかった人物がいるんだと思う。硫酸をフィーリンの眼にかけるよう指示したのはそいつだろう。

  真冬で着込んでいたから、外に露出している唯一の部分である両眼に「偶然」硫酸がかかったというよりは、最初から両眼を狙ったんだろう。フィーリンを失明させるために。防犯カメラの死角を選んで、しかも暗がりで、ピンポイントで両眼に硫酸をかけられるなんて、そのへんの半端なチンピラができることじゃないよ。

  フィーリン襲撃の目的は、単なる仕返しや脅しじゃなくて、フィーリンを芸術監督の座から引きずりおろすことだったんだと思う。しかも、顔や眼に硫酸をかけるという発想には、女性的な陰湿さと粘着性を感じる。  

  ドミトリチェンコと恋人(もしくは夫婦)の関係にあったアンジェリーナ・ヴォロンツォーワが、フィーリンに対して『白鳥の湖』のオデット/オディールを踊らせてくれないかと申し出て、それをフィーリンがひどい言葉で拒絶したのが事件の直接的な原因だという。(あくまで報道によれば、ヴォロンツォーワは元々フィーリンに冷遇されていたそうだが。)

  これも私はおかしな話だと思っている。ヴォロンツォーワは、去年の1月の時点ではコール・ドだった。今はソリストだけど、これはコール・ドのすぐ上で、下から2番目の位階に過ぎない。彼女のキャリアで主要な役といえるのは、『ドン・キホーテ』の森の女王と『ジュエルズ』のダイヤモンドくらい。そんなダンサーが芸術監督に対して、よりによってオデット/オディールを踊らせてくれと直談判した。ボリショイ・バレエでは、こんなことはよくあるの?

  ヴォロンツォーワは事件に巻き込まれたかわいそうな被害者だ、という考えはよく分かるが、ヴォロンツォーワのこの行動について、当局はもっと調べる必要があると思う。

  つまりは、フィーリンがオデット/オディールを踊ることを許可してくれるという目算が、彼女にあったのかどうか。目算があったとすれば、それは彼女の自分の能力への自信に基づくものだったのか、それとも他の要素もあったのか。そもそも、彼女がフィーリンに直談判しようと決意したのはなぜか。彼女個人の考えでそうしたのか、それとも、誰かが彼女にそうするよう勧めたのか。

  私個人は、ヴォロンツォーワが事件後も平然としてにこやかに舞台に立っている姿には、かなりな違和感を覚える。

  ドミトリチェンコの軽率な言動を巧みに利用して、ドミトリチェンコにすべての罪をかぶせてしまった人物がいるに違いないと私は思っている。今回の事件、とかげの尻尾切りで終わってほしくない。


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