「聖なる怪物たち」(12月1日)-2


 注:以下の記事には、本作品に対してかなり批判的な内容が含まれています。感動に水をさされたくないみなさまは、ご覧になるのをお控え下さいますようお願い申し上げます。


  ギエムは相変わらず凄かったです。台湾出身の振付家、林懐民の振付によるギエムのソロは、ギエムの特徴とされてきた能力、つまり人間離れした柔軟な身体、強靱な筋力、安定した平衡感覚、驚異的なバランス保持力を故意に強調した振付でした。

  片脚を付け根から頭の横まで上げて(←ギエム独特のあのポーズ)キープ、ゆっくり数回転する、10秒ほどもかけて、前アティチュードの狀態からゆっくりと徐々に片脚を後ろに移動させてアラベスク、それからパンシェして(←もちろん両脚は180度以上開いている)キープ、などといった動きをふんだんに盛り込んでいました。

  観客がギエムに期待するバレエのムーヴメントをわざと詰め込むことで、カーンのカタックと対比させた踊りです。カタックがカーンを拘束していったのと同様、クラシック・バレエの伝統と観客の期待とが、ギエムを拘束していったことを示す意味合いがあるのでしょうが、それでもやはりギエムは凄いなあ、と思いながら見とれていました。

  カーンとギエムがそれぞれの出発点であるソロを踊った後は、独白と会話を差し挟みつつ、カーンとギエムが一緒に踊り始めます。ギエムがイタリア語を勉強するために、イタリア語版の『ザ・ピーナッツ』を読んだことを独白します。独白の中に、チャーリー・ブラウンの妹、サリーが縄跳びをするシーンが出てきます。その後、ギエムとカーンは縄跳びをモチーフにした楽しげな踊りを踊ります。

  その後はカーンの踊りになります。カーンは「これは正しいのか?」と自問自答しながら、苦しげな表情を浮かべ、拳を激しく打ちつけます。ギエムがその手をつかまえて、カーンを止めます。カーンとギエムは互いの手をつないだまま踊り始めます。

  この手をつないだままの踊りは、ギエムとカーンの腕がかたちづくる輪がとてもきれいでした。

  その前、カーンのソロを見ていて、どうもこの人は腕は短いせいか、腕の動きに見ごたえがないな、と思っていました。思いながら、私はほとんどバレエの舞台しか観ていないから、ダンサーの体型や動きに対して、バレエの基準だけでそのよしあしを評価する癖がついてしまっているのだ、と自覚もしていました。

  最後、ギエムが両脚でカーンの腰を挟み込み、そのままの状態でゆっくりと踊ります。もちろんギエムですから、ずり落ちたりなどしません(笑)。ギエムの上体と両腕は、スローモーションのように、連続写真のように動いていきます。力が入っていることをまったく感じさせません。

  カーンも、自分よりも背の高いギエムを腰だけで支えながら、床に着いているその両脚、そしてギエムにしがみつかれている上半身は微動だにしません。ギエムと同じように両腕を流れるように動かしていきます。カーンとギエムの動きはぴったり合っています。

  この踊りはチベット仏教の合体仏や歓喜仏を連想させます。実際に、カーンはこれらの仏像をモチーフにして振り付けたのだろうと思います。カタックとバレエという異種の踊りの融合と、新しい舞踊表現の誕生を示しているのでしょう。

  その後、ギエムがカーンから体を離して床に下り、二人は楽しげな表情を浮かべて踊り続けます。歌と音楽が高揚したものになっていくとともに、二人の踊りも激しくなっていきます。

  ギエムとカーンが激しく踊り続けていると、いきなり歌と音楽がパタッと止みます。いいかげんにしろ、はいもう終わり!というように。ギエムとカーンは「えっ!?そんなあ!」という表情で歌手と演奏者たちのほうを見ます。その瞬間に照明も落とされます。なかなかユーモラスな、小粋な演出です。

  まとめ。この「聖なる怪物たち」は、そんなに優れた作品だとは思いません。まず、シルヴィ・ギエムもアクラム・カーンも、ダンス界での成功者、それもとてつもない大成功者です。その成功者たちが「私はこんなに苦しんできました」と訴えるのです。こうした「成功者の苦悩自慢」は白けるものです。  

  冒頭、ギエムとカーンはともに鎖のついた手かせを付けています。陳腐で安っぽい演出です。

  次には、この作品の上演が、傍目にはルーティン・ワーク化、ショウビズ化してしまっているように見えることです。この手の内容の作品は、一時性というか即興性というか、そのときそのときでまったく違うパフォーマンスになることが、出来不出来を左右する重要な要素です。鮮度が大事です。これは違うキャストで上演されるならまだ可能なのですが、同じキャストだと非常に難しくなります。

  ギエムとカーンは毎回毎回、決まったセリフで自己の苦悩を述べています。となると、どうしても鮮度は落ちてしまいます。英語圏で上演する場合は即興でセリフを言うことが許されます。しかしこうして非英語圏で上演する場合には、言葉の問題がありますし、字幕も事前に用意されていますから不可能です。しかも、ギエムもカーンもセリフで表現するプロフェッショナルではありません。

  踊りについては、私は今回の舞台しか観ていないので、いつも同じ踊りしか踊っていないのかどうかは知りません。ひょっとしたら、メインのソロやデュエットを除いた他の踊りでは、即興で変えているのかもしれません。しかし、私は今回の舞台を観て、また観たいとまでは思わなかったし、映像版を買おうとも思いませんでした。むしろ、1回しか観ていないのに、この舞台には強いルーティン・ワーク性とショウビズ性を感じました。

  最後には、ギエム、カーン、歌手、演奏者たち、デザイナー、技術者、スタッフが小さな芸術サークルを形作っていて、彼らだけで自己完結してしまっているのが鼻につくことです。伝統的な価値判断、ダンスのジャンルにとどまらない人種・民族・宗教など様々な垣根、そして固定された枠組みに疑問を呈しながら、彼らは同じような価値観を共有し、自分たちだけで固まって垣根を作り、自分たちだけの小さな枠組みの中で悦に入っているように見えます。

  初見の作品なので、今回はさすがにプログラムを買いました。プログラムに書いてある作品紹介や解説は、ほとんどが字面を見ただけで読む気が失せるような、難解な単語を複雑な修辞で敷き連ねたワケ分かんない抽象論ばっかり。こういうとこからも、この作品が持つインテリ的スノッブさがよ~く分かる。

  この75分間に展開されたのは、高い志を同じくする真の芸術家たちによる自己満足の世界でした。観客を演者と同じ世界に巻き込めるような、小さな劇場なら分からなかったと思います。私はギエムとカーンの苦悩と新たなる試みに感動したことでしょう。しかし幸いにも(?)、今回は大きな会場で、演者と観客との間に距離があったおかげで、彼らの自己満度が余計に目立ちました。私という観客は終始一貫して「よそ者」でした。

  この作品は、ロンドンやパリの小さなアングラ劇場で上演したほうがいい作品だと思います。でも実際には、サドラーズ・ウェルズ劇場やシャンゼリゼ劇場で上演されたわけです。アングラ劇場なんてそもそも無理でしょう。シルヴィ・ギエムとアクラム・カーンが演者なのですから。

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