目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀の独り言です。

やってきた、優しい春。

2021-11-20 22:27:07 | いけてつ独り言
ダメージを受けたハートには、優しいトリートメントが必要です。

やがて花が咲き誇る優しい春を待ち望みながら、寒く冷たい木枯らしの吹く街をたった一人で歩いてきました。

時々優しい子猫が、僕の足元にじゃれついて、孤独を癒やしてくれました。
優しい子犬も、餌欲しさのためだけではなく、孤独な魂を持った私を放っては置けないようで、一緒に歩いてくれました。

なにかの足しにと優しい人からもらった草鞋銭で、子猫や子犬と食べ物を分け合って、優しい春と出会うために街を歩いていました。

ふと、僕は気づいたんです。

なけなしのお金をはたいて買った食べ物を分け合って、寒く冷たい冬の道を、ずーっと一緒に歩いてくれた、子猫や子犬が私の友達だったんだと。

その事に気づいたら、心に優しい春がやってきました。

あ、僕はひとりじゃない。
一緒に道行きを歩んでくれた、友がいたんだ。

そう、涙に立ち止まらずに頑張って歩いてきた私への報酬は、一緒に歩んでくれた、子猫と子犬と言う友と、心のなかに来た優しい春だったんです。


倫理の高校学参を読んでみて。

2021-11-20 08:33:10 | いけてつ独り言
我々はケノン(空虚)の中を運動するアトム(原子)。
そのアトムとしての私がどんなものか知らないが、きっとモナド(単子)のようなものなのだろう。

モナドには窓がない。

ライプニッツの説を借りれば、モナドが勝手に動き回って、現実世界において、最適な結果をもたらすらしい。

予定調和というやつだ。

オブジェクト指向の考え方を借りてこよう。

私はオブジェクトである。
そして私の書いているブログを通じて、読者というオブジェクトにメッセージを送っている。

そして、私とは別に存在するオブジェクトが、私のメッセージで、いろいろな感想を持ち、何らかのリアクションを行うわけである。

が、いけもとのメッセージが、読者を変えることはできない。

なぜなら、オブジェクト同士は、メッセージを交換して何らかの動作を行わせることは可能であるが、お互いにオブジェクトの定義内容を書き換えることはできないからである。

まさに、モナドには窓がない。
それを如実に表しているといけもとは感じる。

さて、互いにメッセージを送り合って、何らかの動作を行わせることは可能であるが、書き換えることはできないのが、アトムやモナドの宿命だとしたら、人を変えようとする試みが、いかに無駄なものかよく理解できる。

イデオロギーを信奉して、自分や相手をよりマシな存在にしようする試みは無駄な努力なのだろうかと思った次第である。

バイブルの創世記第一章で、エロヒムが万物を甚だ良しと言っているのであるから、それにイチャモンを付けて、人を変えようとする試みは、傲慢極まりない試みなのであろう。

そんなことを思ったいけもとであった。


因果律、予定説。

2021-11-20 06:13:07 | しんぶんクロハタ並びに小黒金剛石
小室直樹氏が本に面白いことを書いている。

因果律の世界では、ある結果を求めるためには、それこそ将棋のように、一手一手の積み重ねが必要であるが、予定説の世界では、ゴールを設定すれば、何をしてもそのゴールに行き着くという。

我々日本人は、因果律の世界は慣れ親しんでいるが、どうも予定説というものは、理解に苦しむらしい。

キリスト教の考えで行けば、神が命の書とやらにその名前を書いたら、たとえその人がどんな悪事を働こうとも、凄まじい奇跡のオンパレードを行って、その人を救うそうだ。

その奇蹟のアクメが、イエスの十字架である。

とはいえ、私は悪行三昧を人に勧めているわけではないが。

んで、イエスを救い主と心で信じて、口で告白すれば救われるというが、それだって、予め、神が定めたことであるから、いくら神父や牧師そして信者が束になって祈ろうが、神が定めたことであるから、人がいくら頑張っても無駄である。

予定説の信仰に立ってしまえば、出てくる人生観はケ・セラ・セラである。

信仰という船に乗ってしまえば、何をどうしようが、川が海に流れ着くように、パラダイスという海にたどり着くのであるから、人はただ、安心立命に立って、日々を生きればいいわけだ。

たしかにそうだ。
何をしても死後の涅槃という絶対幸福にたどり着くのであるから、日常の四苦八苦など、とるに足らないことなのかもしれない。

そうそう、この世で一番優れた神学者はサタンであるそうだ。
ただサタンとその一味は、神学を救いのためではなく、信仰を破壊するために用いるそうだ。

信仰は深ければ、いくら口のうまいやつに言い負かされたって、改宗することはありえない。そんなわけで、人のうちに押しかけて人を本来の信仰から引き離す悪知識と呼ばれる連中は、サタンの氏子、魔の眷属なのであろう。

考えてみれば、産土の神が「氏子同士仲良くせい!」と仰せなのに、やれ、「某々教の信者はけしからん。」とか「隣の誰兵衛はけしからん。」などとやるのは、自分が産土の神に逆らう魔の氏子や眷属になったことを自分で自白しているようなものだ。

呵々。

そんなことを思った、いけもとであった。