この春、小中高大、新入生として新たな学校生活をスタートさせた若者も多いだろう。
桜花の賑わいが過ぎ、ぼちぼち友達も増えてきている頃か。
今は、SNSで文字をやりとりするだけ、素顔や素性を知らない相手とでも友達になれる時代。
コミュニケーションツールは顔を合わせての会話や固定電話・手紙くらいしかなかった我々の時代に比べると、友達をつくるのは難しくなさそう。
私も、この時代に青春があったら、生涯の友達に出会えたかもしれないか。
そんな孤独男にも、小学校・中学校・高校・大学、それぞれにクラスメイトがいた。
そして、人付き合いが下手ながらも「友人」と呼べる者が何人かいた。
が、卒業と同時に、または卒業から程なくして その縁は切れた。
誰ともトラブルがあったわけでもないのだが、「お見事!」と言ってもいいくらいの絶縁ぶりで”プッツリ!“と。
また、携帯電話のない時代だったから、切れた後の復縁も難しかった。
で、小中高大、私は、これまで同窓会というものに参加したことが一度もない。
若い頃は、何度か案内状が届いたこともあったが、今はもう、そんなものは届かない。
時々は、「みんな、いい歳になって、苦楽しながらどこかで生きてるんだろうな・・・」と思い出すこともあるし、「死んじゃったヤツもいるかもな・・・」と職業病的な思いが浮かぶこともある。
それでも、「旧友に会いたい」といった思いはないし、「参加しとけばよかった」といった後悔もない。
「“同窓会”っていうのは、うまくいっているヤツしか行かないもの」
かつて、進学校に通っていた兄が私にそう言ったことがある。
兄は、愛校精神が強く、開催される高校の同窓会にはほとんど参加しているよう。
その実体験として、社会的・経済的・職業的・身体的にネガティブな状態、または自慢できない状態にある者は参加しないパターンが多いと感じているそう。
それを聞いた私は、「核心を突いた名言かも」と至極納得した。
私は、大学は三流だし、引きこもりをした挙句に就いたのは、ブログで散々“自慢”している死体業。
正しく自慢できることも、褒めてもらえそうなことも、感心してもらえそうなことも何もない。
“負け組”にいるから欠席・・・「その虚栄心が同窓会をスルーしてきた一因」と指摘されても否定しきれない。
仮に、自分が“勝ち組”にいたら、自慢話を楽しみにイソイソと出かけて行ったかもしれず、「勝っても負けても、どちらにしても俺はつまらない人間なんだな・・・」と、今更ながらに苦笑いしている。
訪れた現場は、街中に建つ古いアパート。
間取りは1DK。
その台所で、住人の高齢男性が孤独死。
発見は遅れて遺体は腐敗し、玄関に近いこともあって異臭が外へ漏洩。
それがキッカケで異変は明るみになった。
遺体汚染は、玄関を入ってすぐのところの台所床に残留。
警察が遺体を運び出す際に周囲のゴミが混ざったのか、履物が汚れないよう意図的に遺体汚染をゴミで覆ったのか、私が出向いたとき、遺体痕はゴミに混ざっているような状態。
ゴミの下から現れた汚染は、ライト級からミドル級。
床材のクッションフロア(CF)だったので、特殊清掃の難易度も低めを想像。
奥に進んだ部屋も半ゴミ部屋の状態。
故人が、このアパートに入居したキッカケは生活保護受給。
以前は、広い持ち家にでも暮らしていたのだろうか、この手狭な古アパートへ引っ越すに際してもモノが捨て切れなかったのだろう、六畳一間に大量の家財が押し込まれていた。
依頼してきたのは、アパートの管理会社。
故人は生活保護受給者で、賃貸借契約に保証人はおらず。
近しい血縁者もなく、やっと見つかった親族もすべてを放棄。
特殊清掃・消臭消毒・家財処分、その後の内装改修工事まで、すべて大家が負担せざるをえない状況。
で、「なるべく安く」という管理会社の要望のもと、当社は特殊清掃・家財処分・消臭消毒を請け負い、受け取る遺族がいないとほぼ無駄になる遺品整理をサービスで行った。
→※参照「生活保護受給者の孤独死とヒューマンケア」
https://www.humancare.jp/faq/faq_16052/
前述の想定通り、遺体汚染は軽くいなすことができた。
ゴミについても、ヘビー級のゴミ部屋ではなし。
家財大量とはいえ所詮は1DK、しかも一階。
作業を進める上で大きな障害はなく、また、想定外の事態が起きることもなく、日常的な労力と知恵を供せば充分な状況で、行った作業だけ見ると、特に記憶に刻まれるような現場ではなかった。
ただ一点、心に残ったことがあった・・・
このアパート、道路に面した壁に全室の集合ポストが設置されていた。
小さな南京錠をつけている部屋もあったが、基本的に鍵はなく、誰でも開けられるステンレス製ポスト。
故人室のポストも鍵はついておらず、誰でも自由に開けられる状態。
長い間放置されていたせいで、中には、郵便物だけでなく多くのチラシ類がギッシリ詰め込まれていた。
それらも片付けの対象物なので、私は、無造作に掻き出して一旦地面に落とした。
そして、重要書類や管理会社や大家に引き渡した方がよさそうなモノがあるかもしれなかったので、それ一通一通・一枚一枚をチェック。
ただ、見たところ、ほとんどは不要なチラシ・DMの類。
あとは、公共料金の請求書や明細書、死人の役には立たない行政関係の書類等、家財同様、ゴミになるしかないものばかりだった。
その中に一枚、ちょっと気になるモノが混ざっていた。
それは往復ハガキで、旧友(級友)から送られてきた同窓会の案内状。
発送地は北海道、発送者は同窓会の幹事、中学時代の同級生のよう。
ポストに留まっていたところをみると、案内状が届いたのは死去後。
つまり、故人は、それを知らないまま逝ったことになる。
どちらにしろ、北海道への旅には結構な費用がかかる。
生活保護を受給するようになるまでには相応の苦楽があったはずで、受給開始後も慎ましい生活を余儀なくされていたはず(制度の性質を考えると当然のことではあるが)。
そんな実状を考えると、近年、故人は欠席を続けており、将来にわたっても出席の期待を持っていなかったように思えた。
ただ、「そろそろ案内が届く頃だな・・・」と、例え出席が叶わないにしても、故郷の風景や旧友の情を胸に抱き、ひとときでも孤独を忘れることができたかもしれない。
また、このアパートにハガキが届いているということは、転居してきた際、幹事に新住所を知らせたということでもあり、それは同窓と繋がっていたかった意思の表れでもある。
故人は、生活保護受給者になった自分を卑下するようなことがあったかもしれないが、私のような、つまらない虚栄心が捨てられない人間ではなかったように思えた。
内容は、ごく一般的なもの。
同窓会の開催日時と会場、そして、それへの出欠返信を求めるもの。
ただ、そのハガキには、例年にはないはずの付記があった。
それは、「同窓会は今回で最後にする」というもの。
「皆が八十をとっくに越え、病を得る人や亡くなる人が増えてきて、出席者は減る一方」
「自分(幹事)も世話をするのが大変になってきた」
「“この辺りが潮時”という考えに至った」
長年、苦楽を分かち合ってきた友との会を終わりにする・・・
そこには、現実の事情と悩める心情がしたためられており、抗えない淋しさが滲み出ていた。
そんなハガキを手にしていると、得も知れる切なさと淋しさを覚え、同時に色々な想いが駆け巡った。
“このままスルーしようか・・・”
“代筆を明かしたうえで”欠席”に印をつけて出そうか・・・
“故人の死去を知らせた方がいいだろうか・・・“
“死の報は、最終会の盛り上がりに水を差すことにならないだろうか・・・”
“管理会社に判断を委ねようか・・・”
自分の中で質疑応答が錯綜し、自分の考えが自分の考えでないような迷いの渦にハマっていった。
故人の遺志も察しようとした。
“故人はどうしてほしいだろうか・・・”
“このままスルーしてほしいだろうか・・・”
“欠席を伝えてほしいだろうか・・・”
“亡くなったことを知らせてほしいだろうか・・・”
答を一つに絞れるわけはない。
最終的に、私は、
「自分が故人の立場だったら、どうしてほしいだろうか・・・」
と自身に問うてみた。
旧友との縁もなく同窓会というものに出たことがない私は考えあぐねたが、結局、
「友に不義理なことはしたくないので、死んだことは伝えてほしいかな・・・」
という考えに至った。
そして、ハガキを左手に持ち、ボールペンを右手に握った。
すると、自分の行いが知恵のある善行のように感じられて、善人になったような気分が私を包んできた。
ただ、それは妙な満足感で、気持ち的な居心地の悪さがあり、長くは続かず。
そのうちに、「親切を押し売っての自画自賛?」、「“故人のため”という名の自己満足?」と、心中で警鐘が鳴りはじめ、同時に、自分がやろうとしていることが余計なお節介のような気がしてならなくなってきた。
仮に、故人が生きていたとしても、もう来年の同窓会は開かれない。
また、疎遠や死別によって誰との縁も自然に薄らぎ消えていく。
「この電話番号は只今使われておりません」のアナウンスによって、いずれ故人の死は悟り知られるかもしれない。
私が、ない頭をギュウギュウ絞ってしゃしゃり出なくても、自然の成りゆきに任せておけば自然に片付く。
どこに故人の尊厳を置くか、何をもって故人に対する礼儀とするか、いくつもの正解がある中で、私の考えはそういうところに落ち着いた。
同窓会は、予定通り開かれるだろう・・・
「最終会」ということで例年より多くの友が集まり、例年より盛り上がるかもしれない・・・
想い出話にも一層の花が咲くかもしれない・・・
ひょっとしたら、連絡のない故人のことが話題に上るかもしれない・・・
私は、そんなことに想いを馳せながら、故人の柩に納めるかのような心持ちでハガキをそっとゴミ袋に入れたのだった。
今回も良い話をありがとうございました。
なんというか、どのブログも温かいんですよね。
私が亡くなった時は、隊長に掃除をお願いしますね。これからもブログ楽しみにしてます!