春真っ盛り。
天候不順だった4月が過ぎ、“遅い春”といったところか。
青い空と白い雲を従えて、太陽が温度を増している。
このゴールデンウィークも晴天に恵まれた。
私は、例によって無休だったけど、それももう慣れたもの。
反対車線に徐行する行楽渋滞を横目に、快適走行。
心地よい風を受けながら、レジャーを空想しながら各地の現場へと車を走らせた。
そんな春は、人々に優しい。
暑からず・寒からず、過ごしやすい時間を与えてくれる。
そしてまた、生気漲る自然が、気力をも与えてくれる。
そんな季節が一年を覆ってくれればどんなに楽だろう・・・
春夏秋冬の趣を喜びつつも、ついついそんな風に思ってしまう。
「私にとって、冬は精神的にキツイ季節である」
と、以前に何度か書いたことがある。
その傾向は、今年も変わっていない。
やはり、暗くて寒いと精神が病みやすい。
そういった意味では、だいぶ楽になっている今日この頃である。
しかし、こんな優しい季節にも“病”はある。
そう、“五月病”だ。
特に、新入生や新入社員に患う人が多いのだろうか。
蔓延するストレスに物事の意味や先の目標を奪われ、会社や学校に行くことに気も足も重くなる・・・
その、逃げだしたくなるような気持ち、よくわかる。
私の場合は、“万年五月病”。
朝、仕事に行くのがイヤじゃない日なんてほとんどない。
キツイ現場を予定しているときは、特にそう。
作業の何日も前から気が重くなり、ヒドイときは夢にまででてきて私の安眠を妨害する。
更に、神経質な性格が災いして、悪い空想ばかりが頭を過ぎる。
前回のブログでカッコつけたにも関わらず、実態はそう。
怠けようとする身体とそれを叱咤する理性が、毎朝のようにケンカをする。
ただ、理性が勝つから仕事に行くのではない。
また、自分の精神力がモノを言うから仕事に行くのではない。
うまく言えないけど、生きるためのやっとの気力が、私を動かしているように感じている。
この時もそう・・・
仕事の依頼を受けた私は、生活の糧となる仕事が与えられていることに感謝しつつも、その仕事をこなさなければならない重圧にのしかかられ・・・
不快な緊張感とプレッシャーに、気持ちを暗くしていた。
訪問した先は、閑静な住宅地に建つ一般的な一軒家。
依頼者は、その家に住む中年の女性。
現場は、二階の一室。
女性の息子が、自室として使っている部屋だった。
案内されて部屋に入ると、そこはゴミ部屋。
床は少しも見えておらず、6畳ほどのスペースはゴミが占有。
AV機器・PC・ギター・雑誌・CD・ゲーム・飲料容器etc・・・
置いてある家財とゴミは、部屋の主がまだ若いことを示唆。
私は、部屋の主と、親の迷惑を顧みることなかった若い頃の自分とを重ねて深い溜息をついた。
ゴミの中には、大量のペットボトルと缶が存在。
その中には、茶系の液体。
それが飲み物でないことは、一目瞭然。
過去の経験と目の前の光景を照らし合わせた私には、その正体がすぐに分かった。
女性の要望は、それら全部の片付け。
女性は、謎の液体が何であるか承知のうえで、ゴミの始末を私に依頼してきた。
それを聞いた私は、即答できず返事を保留。
そして、気を重くしながら、覚悟すべき作業を頭の中に組み立てた。
一考の結果、作業において、家中に悪臭が広がることと、床が汚れてしまうことが確実に。
私は、トラブルを未然に防ぐため、そのことを説明し、それを了承してもらうことを作業実施の条件とした。
ゴミを溜めた息子は、定職につかずアルバイトを転々。
警察の御厄介になるほどの遊びには手を出さないものの、消費者金融から金を借りては遊興三昧。
一度染み付いた怠け癖は、周囲が目くじらを立てても抜けることはなく・・・
両親がその尻を拭ったことは一度や二度ではなかった。
そんな息子に、両親は、“自活させれば変わるかも”と、外に賃貸アパートを用意。
過保護をあらためるべく、物理的にも心的にも一定の距離を置くことにした。
しかし、それは、更なる問題を招くことに・・・
息子は、親の目がなくなったことをいいことに、悪さをエスカレートさせた。
仕事に就かないのはもちろん、払うべきお金も払わず・・・
家賃や水道光熱費を滞納しただけにとどまらず、あろうことかそこをゴミ部屋にしてしまった。
そんなこんなで、両親はまたもや尻拭いをさせられるハメに。
結局、一人前の一人暮らしができない息子を、実家に戻すことに。
片や、息子の方は、反省の色を見せず。
ゴミを片付けない習慣をあらためるどころか、アパート時代の生活スタイルをそのまま継続。
両親の目をはばかることもなく、ゴミを放置する生活を始め・・・
そして、両親がそんな息子を持て余しているうちに、息子の部屋は、またもやトイレ兼ゴミ箱と化してしまったのであった。
そう・・・謎の液体は尿・・・しかも、充分に腐敗した・・・
トイレに立つのが面倒臭かったのか、息子は、ペットボトルや空缶に排泄。
そして、蓋ができるペットボトルはゴミの中に放り、蓋ができない缶はパズルのように積み上げ・・・
これを長期間に渡って繰り返し、とんでもない量を溜め込んだのだった。
特に私が泣かされたのは、積み(組み)上げられた缶。
なにせ、これには蓋がないものだから、横に傾けるわけにいかず・・・
しかし、絶妙のバランスで重なっているそれは、一本抜くと周囲の何本もが崩れ落ちるような有様で・・・
当然、ひっくり返った缶からは、腐敗尿が流れ出し・・・
どう収拾をつけていいのかわからないまま、私は、悲鳴に近い雄叫びを上げながら、身を挺するしかなかった。
結局・・・
それらを一本一本手に取り・・・
中身をバケツに移し換え・・・
そのクサイことといったら、ハンパではなく・・・
飛び散る腐敗尿の滴は、腕や身体を汚し・・・
タイミングが悪いと、顔にまで跳ね返ってきたりして・・・
そうしていっぱいにしたバケツをトイレへ運び・・・
便器の中に流す・・・
ひたすら、これの繰り返し・・・
それは、仕事の域を超えた試練、試練の域を越えた修行のような感覚を私にもたらすものだった。
元来の私は、ナマケモノ。
かなりの面倒臭がりで、残念ながら、そのレベルは病的なくらい。
楽することばかりを志向し、頭や身体を動かすことを億劫がる。
ギリギリまで追い詰められないと動かない。
特に、これから夏にかけては暑くなる一方で、現場作業に過酷さが増す。
皮膚が涙にも似た汗を滲ませ、筋肉という名の贅肉が悲鳴をあげる。
脳も身体も動きが鈍くなり、その隙を狙って、怠け心が夏の盛の雑草のように芽を出してくる。
そいつを摘み取るだけで、いっぱいいっぱいになったりする。
怠けて楽できると思うのは、その時だけの錯覚。必ず苦がついてくる。
怠けて得をするのは自分ではない。怠けて損をするのが自分。
そんな理屈は、多くの人が理解している。
だから、多くの人が、怠け心と対峙し戦っている。
一生懸命に生きることを怠けようとする自分。
楽して生きることばかりを望む自分。
そんな自分を卑下し、落ち込む自分。
全部、自分。
そいつとも対峙し戦わなければならない。
必死に生きるための気力は、失われっぱなし。
やっと得た気力も、アッという間に消えてなくなる。
それでもまた、気を育てる・・・それを繰り返す・・・
気を枯らさないように、気の根を腐らせないように・・・
希望と笑顔の陽を当て、汗と涙の雨を降らせ、訓戒と鍛錬の肥料をやり続ける・・・
それは、生きるためにしがみつく樹に、実を生らせる営み・・・
そして、実の味わいを深くする営み・・・
・・・私のようなナマケモノにとって、贅沢な生き方なのかもしれない。
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天候不順だった4月が過ぎ、“遅い春”といったところか。
青い空と白い雲を従えて、太陽が温度を増している。
このゴールデンウィークも晴天に恵まれた。
私は、例によって無休だったけど、それももう慣れたもの。
反対車線に徐行する行楽渋滞を横目に、快適走行。
心地よい風を受けながら、レジャーを空想しながら各地の現場へと車を走らせた。
そんな春は、人々に優しい。
暑からず・寒からず、過ごしやすい時間を与えてくれる。
そしてまた、生気漲る自然が、気力をも与えてくれる。
そんな季節が一年を覆ってくれればどんなに楽だろう・・・
春夏秋冬の趣を喜びつつも、ついついそんな風に思ってしまう。
「私にとって、冬は精神的にキツイ季節である」
と、以前に何度か書いたことがある。
その傾向は、今年も変わっていない。
やはり、暗くて寒いと精神が病みやすい。
そういった意味では、だいぶ楽になっている今日この頃である。
しかし、こんな優しい季節にも“病”はある。
そう、“五月病”だ。
特に、新入生や新入社員に患う人が多いのだろうか。
蔓延するストレスに物事の意味や先の目標を奪われ、会社や学校に行くことに気も足も重くなる・・・
その、逃げだしたくなるような気持ち、よくわかる。
私の場合は、“万年五月病”。
朝、仕事に行くのがイヤじゃない日なんてほとんどない。
キツイ現場を予定しているときは、特にそう。
作業の何日も前から気が重くなり、ヒドイときは夢にまででてきて私の安眠を妨害する。
更に、神経質な性格が災いして、悪い空想ばかりが頭を過ぎる。
前回のブログでカッコつけたにも関わらず、実態はそう。
怠けようとする身体とそれを叱咤する理性が、毎朝のようにケンカをする。
ただ、理性が勝つから仕事に行くのではない。
また、自分の精神力がモノを言うから仕事に行くのではない。
うまく言えないけど、生きるためのやっとの気力が、私を動かしているように感じている。
この時もそう・・・
仕事の依頼を受けた私は、生活の糧となる仕事が与えられていることに感謝しつつも、その仕事をこなさなければならない重圧にのしかかられ・・・
不快な緊張感とプレッシャーに、気持ちを暗くしていた。
訪問した先は、閑静な住宅地に建つ一般的な一軒家。
依頼者は、その家に住む中年の女性。
現場は、二階の一室。
女性の息子が、自室として使っている部屋だった。
案内されて部屋に入ると、そこはゴミ部屋。
床は少しも見えておらず、6畳ほどのスペースはゴミが占有。
AV機器・PC・ギター・雑誌・CD・ゲーム・飲料容器etc・・・
置いてある家財とゴミは、部屋の主がまだ若いことを示唆。
私は、部屋の主と、親の迷惑を顧みることなかった若い頃の自分とを重ねて深い溜息をついた。
ゴミの中には、大量のペットボトルと缶が存在。
その中には、茶系の液体。
それが飲み物でないことは、一目瞭然。
過去の経験と目の前の光景を照らし合わせた私には、その正体がすぐに分かった。
女性の要望は、それら全部の片付け。
女性は、謎の液体が何であるか承知のうえで、ゴミの始末を私に依頼してきた。
それを聞いた私は、即答できず返事を保留。
そして、気を重くしながら、覚悟すべき作業を頭の中に組み立てた。
一考の結果、作業において、家中に悪臭が広がることと、床が汚れてしまうことが確実に。
私は、トラブルを未然に防ぐため、そのことを説明し、それを了承してもらうことを作業実施の条件とした。
ゴミを溜めた息子は、定職につかずアルバイトを転々。
警察の御厄介になるほどの遊びには手を出さないものの、消費者金融から金を借りては遊興三昧。
一度染み付いた怠け癖は、周囲が目くじらを立てても抜けることはなく・・・
両親がその尻を拭ったことは一度や二度ではなかった。
そんな息子に、両親は、“自活させれば変わるかも”と、外に賃貸アパートを用意。
過保護をあらためるべく、物理的にも心的にも一定の距離を置くことにした。
しかし、それは、更なる問題を招くことに・・・
息子は、親の目がなくなったことをいいことに、悪さをエスカレートさせた。
仕事に就かないのはもちろん、払うべきお金も払わず・・・
家賃や水道光熱費を滞納しただけにとどまらず、あろうことかそこをゴミ部屋にしてしまった。
そんなこんなで、両親はまたもや尻拭いをさせられるハメに。
結局、一人前の一人暮らしができない息子を、実家に戻すことに。
片や、息子の方は、反省の色を見せず。
ゴミを片付けない習慣をあらためるどころか、アパート時代の生活スタイルをそのまま継続。
両親の目をはばかることもなく、ゴミを放置する生活を始め・・・
そして、両親がそんな息子を持て余しているうちに、息子の部屋は、またもやトイレ兼ゴミ箱と化してしまったのであった。
そう・・・謎の液体は尿・・・しかも、充分に腐敗した・・・
トイレに立つのが面倒臭かったのか、息子は、ペットボトルや空缶に排泄。
そして、蓋ができるペットボトルはゴミの中に放り、蓋ができない缶はパズルのように積み上げ・・・
これを長期間に渡って繰り返し、とんでもない量を溜め込んだのだった。
特に私が泣かされたのは、積み(組み)上げられた缶。
なにせ、これには蓋がないものだから、横に傾けるわけにいかず・・・
しかし、絶妙のバランスで重なっているそれは、一本抜くと周囲の何本もが崩れ落ちるような有様で・・・
当然、ひっくり返った缶からは、腐敗尿が流れ出し・・・
どう収拾をつけていいのかわからないまま、私は、悲鳴に近い雄叫びを上げながら、身を挺するしかなかった。
結局・・・
それらを一本一本手に取り・・・
中身をバケツに移し換え・・・
そのクサイことといったら、ハンパではなく・・・
飛び散る腐敗尿の滴は、腕や身体を汚し・・・
タイミングが悪いと、顔にまで跳ね返ってきたりして・・・
そうしていっぱいにしたバケツをトイレへ運び・・・
便器の中に流す・・・
ひたすら、これの繰り返し・・・
それは、仕事の域を超えた試練、試練の域を越えた修行のような感覚を私にもたらすものだった。
元来の私は、ナマケモノ。
かなりの面倒臭がりで、残念ながら、そのレベルは病的なくらい。
楽することばかりを志向し、頭や身体を動かすことを億劫がる。
ギリギリまで追い詰められないと動かない。
特に、これから夏にかけては暑くなる一方で、現場作業に過酷さが増す。
皮膚が涙にも似た汗を滲ませ、筋肉という名の贅肉が悲鳴をあげる。
脳も身体も動きが鈍くなり、その隙を狙って、怠け心が夏の盛の雑草のように芽を出してくる。
そいつを摘み取るだけで、いっぱいいっぱいになったりする。
怠けて楽できると思うのは、その時だけの錯覚。必ず苦がついてくる。
怠けて得をするのは自分ではない。怠けて損をするのが自分。
そんな理屈は、多くの人が理解している。
だから、多くの人が、怠け心と対峙し戦っている。
一生懸命に生きることを怠けようとする自分。
楽して生きることばかりを望む自分。
そんな自分を卑下し、落ち込む自分。
全部、自分。
そいつとも対峙し戦わなければならない。
必死に生きるための気力は、失われっぱなし。
やっと得た気力も、アッという間に消えてなくなる。
それでもまた、気を育てる・・・それを繰り返す・・・
気を枯らさないように、気の根を腐らせないように・・・
希望と笑顔の陽を当て、汗と涙の雨を降らせ、訓戒と鍛錬の肥料をやり続ける・・・
それは、生きるためにしがみつく樹に、実を生らせる営み・・・
そして、実の味わいを深くする営み・・・
・・・私のようなナマケモノにとって、贅沢な生き方なのかもしれない。
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