初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

ジャン・シベリウス(最終話)

2007年08月10日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日はジャン・シベリウス(第6話)です。

≪作曲家の肖像≫
シベリウス:きわめつきの小品集
オムニバス(クラシック),ラウティオ(エルッキ),舘野泉,シベリウス,サイオラ(ライモ),リウ(フイ=イン),フィンランド放送交響楽団,ノラス(アルト),サラステ(ユッカ=ペッカ),タピオラ・シンフォニエッタ
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【Jean Sibelius】

イギリス、アメリカへと渡って人気を獲得するシベリウスでしたが、帰って来たヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発してしまいます。今日はその続きから。

(第6話)【国民的英雄】
第一次大戦は、シベリウスにも少なからず影響をもたらします。この頃のフィンランドはまだ独立を果たしておらず、ロシアの属国として戦争に参加する形になってしまいます。

そのため、形式上ドイツはロシアの敵国となってしまったため、それまで取引のあったドイツの出版社とはやりとりをする事ができなくなってしまいます。更に戦時中という状況下では、それまでのようにイギリスやアメリカに演奏旅行に行く事も出来なくなってしまいます。

そんな中1915年、この年はシベリウス50歳の年でしたが、フィンランドでは祖国の偉大な作曲家の“生誕50年”として記念行事が開催され、その一環としての記念演奏会も行われる事になります。シベリウスはこの演奏会のために交響曲第5番を作曲します。同年、シベリウスの指揮によって初演が行われると、大成功を収めます。

1917年戦争の混乱の中、ロシア革命が勃発すると、フィンランドでも遂に「独立宣言」が発せられると、1919年にはフィンランド共和国として独立を果たします。同年第一次大戦が終わるとシベリウスの作曲活動も再開されます。

交響曲第5番と同時期に作曲にかかっていた第6番を完成させると、1923年にヘルシンキで初演が行われます、これに続き翌1924年には交響曲第7番を完成させ同年中にストックホルムで初演されます。

1925年には交響詩「タピオラ」を完成させます。そしてこの年は10年前に続きフィンランドでは“シベリウス生誕60周年”として大統領から白バラ大十字勲章が与えられ、名実共に国民的大作曲家として、栄光の日を迎えるのでした。その結果、それまで支給されていた年金も大幅に増額されていきます。

しかし、この頃からシベリウスの作曲が途絶えてしまいます。1926年には劇音楽「テンペスト」を作曲しますが、その後は、ほとんど新しい作品が生まれなくなってしまいます。

しかし、シベリウスは決して作曲を止めていた訳では無かったようです。新作の交響曲第8番を生み出すべく、試行錯誤を繰り返していたようです。しかし盛大な記念式典まで催されるほどの大作曲家として祭り上げられてしまい、録音技術が発明されていたこの頃には既に未完の「交響曲第8番」を含んだ「シベリウス交響曲全曲録音」という企画まで持ち上がってしまい、シベリウスは過度の期待にプレッシャーを感じ、厳しい自己批判に陥ってしまうのでした。

こうした重圧の中、結局、交響曲第8番は完成を見るに至らず、あれよあれよという間に時間だけが過ぎていき、30年間「謎の沈黙」と呼ばれるような時代が続き、結局その間目だった作品を生み出す事の無いまま晩年を迎え、1957年、脳出血により帰らぬ人となってしまうのでした。享年91歳の秋の事でした。


最後はかなり駆け足になってしまいましたが、国民的英雄の名を勝ち取ったシベリウス。晩年はプレッシャーのため作曲は中断される形になってしまいましたが、それでも生前に記念祝典が開催されるほどの人気を獲得したシベリウスは現在のフィンランドでも、やはり国民的作曲家として敬われているようですから、偉大な作曲家の名に相応しい作曲家なんだと思います。

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