昨夜、里芋を煮た。最初、ふつうに煮っころがしにしようと思っていたけれど、皮を剥いてみたら、まっしろでみずみずしく、身がしまって、とてもおいしそうだった。
これをおしょうゆ色に染めるのはもったいないなあ、と思い、白煮にすることにした。
日本酒と真塩、味醂、砂糖、という簡素な調味料。ただ、煮崩さないように、芯まで火がとおるように、ことこと煮るだけ。
お正月のやつがしらと同じ。
冷蔵庫を見たら、栗の甘露煮が残っている。お汁粉用の買い置きだけれど、ふと思いついて、里芋と炊き合わせた。
サツマイモとリンゴの重ね煮のことなど、このごろ考えていたせいかもしれない。秋だし……なにか、と。
昨夜試食したら、ほっくりと火がとおって「それなり」だったけれど、ひとばん置いて、今朝食べたら、倍くらいおいしかった。
やっぱり含め煮は、一日置いたくらいが、味がしみこんで食べ頃になるな、と思う。
最初に里芋をいちど下茹でしてゆでこぼす手間と、煮含めるときの火加減に気をつければ、とてもかんたん。
里芋のすこし変わった召し上がり方です。秋冬にいかがでしょうか。
それこそ、いまどき読まれているのかどうか知らない。
セルジュ・ゲンズブールの歌を聴いていたら「マノン・レスコー」という単語がとびだしておどろいた。
そういえば、これも「椿姫」とならんでフランスメロドラマの元祖だった。
普遍的な女性元型のなかにこうしたファム・ファタルがひそむ。
ブルトンの「ナジャ」なども、まがりくねってそこにつながる。
そんなことを考えめぐらすと、PCの横に掛けてある聖母像、わたしをにらむような気がする。
紫式部は、それを「心の鬼」と表現したらしい。
良心にとがめるもの……古代日本では、きびしい鬼だった。
それでは、御仏はすべてすべて受容し、ゆるすものだったということかしら。
ぱらぱらと「マノン・レスコー」をめくると無邪気でエゴイスティックで、情にもろくて、気まぐれな……ヒロインがちらほらする。
だけどこれを書いたのはアヴェ・プレヴォーという男性だから、男の人にとって、たぶん、まあ、こういうエロスのかたまりみたいな女性がいいんだろうな、と思う。
ラファイエット夫人や、ジョルジュ・サンド、ブロンテ姉妹、ヴァージニア・ウルフという女性作家たちの造型するヒロインは、かなりはっきりした自己認識を持っている。
おもしろいのは、森茉莉さんの藻羅(もいら)だけは、わたしの知っているかぎり、骨の髄まで少女(亜女性)の魅惑でつらぬかれ、知的な筋道がはいらない。
モイラの行動は、彼女のふかしぎに緻密な皮膚感覚……肉体感覚で決定され、理非善悪の埒外にある。
これはまた、たどりたどってゆくと、山岸涼子さんの「馬屋古女王(うまやこのひめみこ)」までつながりそう。
森茉莉さんは、ほんとにユニークなひとだったにちがいない。
フランスやイギリス文学のヒロインたちとちがって、成長した藻羅の行動がどこまでも「少女・あるいはこども」であって、恋愛沙汰の場でも、決して「成人女性」の計算ずくの駆け引きをしない。
本能で生きている。だから、モイラは少女でなく、美少年でもいいわけだ。
それで『枯葉の寝床』なんて名作があるのか。
嵐が丘の初代キャサリンも、そういえばそんな気がする。
少女、少年、ふしぎないきもの。
思いつくまま。
考えが流れるままに、あらあら書き付けておく。
見たまま。
仕事の帰りがけに、とある急斜面の空き地で、返り咲きの桜が満開。
夕暮れ近く、その姿はいっそう幻想的だった。
春のそれよりこぶりで、華奢。
それでもその樹は、枝いっぱいにあふれるように花を咲かせていた。
桜に託してひとは思いをさまざまに詠った。
花のごとよのつねならば過ぐしてし昔はいまもかへり来なまし
古今集 春歌下
うちに帰って、ふと、ヘンデルのアリア「オンブラ・マイ・フ/なつかしき木蔭」を聴きながら。
今秋、また椿さんの作品展示がある。
詳しくはホームページを御覧ください。
彼が、あまりに気丈で、弱音をはかないので、わたしはすっかり忘れている。
彼の手のこと。
苦しい骨折から、ひたすらリハビリにはげみ、ふたたびチェロを演奏できるまで回復した日々のこと。
わたしは、いったい彼から何を、どれほど教わったろうか。
音楽、絵画、文章、どれもいたらない。
今、どんなにかわたしが現実にさらされて痛んだとしても、チェリストにとって致命的ともいえるあの事故ほどではない。
でも、彼は愚痴ひとつこぼさず耐えて、復帰した。
わずか二年前のこと。
離れていても、こころから慕っている。
彼は、たぶん今夜も画布に挑むだろう。
画像は椿さんの過去の作品のひとつ。展示とは無関係です。
昨日、ある古寺で桜の開花を見た。秋に咲くものだろうか?
びっくりした瞬間、ふっと「きちがいじゃが仕方がない」、という横溝正史さんの『獄門島』(?)のなかの台詞をおもいだしてしまった。旧家の美しい三人娘が、つぎつぎと妖しい仕方で……という。
目のさめるような青空のなか、まぎれもない澄んだつめたい大気の秋晴れに、ひらひらと花を咲かせているさくらのたたずまいは、幻影のようだった。
横溝正史さんもよく読んだっけ。
ロマネスクピカレスク極彩色の絢爛は、たぶんこれからもずっと色褪せないだろう。あの風変わりな金田一耕介は、なんだか探偵版寅さんみたいでもあり、スナフキンみたいでもあり、大好きだった。
フケはいやだけど。
朝のトーストを焦がしすぎてしまった。
「死にたいやつはしなせておけ、おれはこれからあさめしだ」
それは吉行淳之介さんか、開高健さんか、どちらかの寸言だったそうだ。
最初は、ちょっと……な言葉だなあ、と思ったけれど、「生きる努力を怠るな、前むかって進んでゆくぞ」という意味にうけとめた。
朝ごはんは毎日きっちり食べる。
おなかがすいて眼が覚めると、ああ、健康だな、と思う。
ゆでたまごをつくるお湯に塩をいれわすれたら、白身が殻にくっついてぼこぼこになってしまった。
新鮮なたまごの証拠でもある、と。
朝からいろいろな考えや連想がとびめぐる。
宇治拾遺物語だったろうか。
「安養の尼の小袖」
侵入した泥棒が家内のあらいざらいの物品を抱えて出て行ったあと、彼をわざわざ追いかけて、「忘れ物ですよ」、と自分の着ていた小袖までも与えたという奇特な尼君の説話。
泥棒は、その行為に感激して、発心し、出家したそうだ。
それは、アシジの聖フランシスコの逸話などにも通う。
汝の敵を愛せ、というキリストの御言葉とも。
木犀の香りがした。
それで、顔をあげたら夕暮れだった。
匂いはふしぎだ。
陽射しのかげん、湿度、風のむきで、さまざまに濃淡を変える。
静かな夕暮れ。
また歌がこぼれる。木犀も散る。もうじきこの花もおわりだ。
今夜は、満月のはず。
午後に。
この社会のなかで、つつがなく在ることが、じつは貴重なのだと思う。
それにしても、いつも思うのは「部分」で「全体」を判断されるのはいやだなあ、ということ。
わたし自身、それはいましめていること。
わたしの歌は、わたしのこころのなかで、たぶんいちばんきれいなものだし、そうありたい。
かなしみやくるしさを吐露するときでも、歌の調べにのせてつむぎだすとき、詠ったわたし自身、癒される。
何があったわけでもない。白蓮さんのことなど思いめぐらして、ふと思った。
その時代、周囲から「莫連女」とまで非難され、叩かれた彼女のこころを、いったい誰が率直に汲み取ることをしたろうか?
しんどかったろう。
いま、後世のわたしたちは、うつくしい彼女のおもかげと歌をめでることができるけれど。
『紫式部日記』にも、そんなことが書いてあったっけ。