矢川澄子さんの文章の中から。
……「父」の文学に対置されるべきものは、断じて「母」の文学ではない。相補概念としてのそれは「娘」の文学なのだ。もしくは「少女」のそれといってもよい。
すごいなあ。
断定には勇気がいる。
そして、第三者である読者を納得させるだけの、精神と知性の蓄積がなければ、その所感は説得力のない、うすっぺらなものになってしまう。
さすがに、澁澤龍彦さんとゆかりのあったひと、とおもわずにはいられない。
ほんとのこと、わたしは、何に対してであれ、中途半端な批評意識などは持たないようにと、椿さんに教えられてきた。
でも、読者としてすぐれた批評を読むのはおもしろい。
執筆者の精神の弾力、あざやかな言葉の切り口、視覚、そして無駄のない文章と主題。いたるところにすぐれた知性のきらめき。
矢川さんは、そういう女性だった。
こういう出会いもまた、うれしい。そしてだいじだ。笹百合さんに感謝します。
確かアナイス・ニン作品の翻訳もされていたと思い出しました。
アナイス・ニンはヘミングウェイとその妻との関係を綴った日記が世俗で暴露本扱いされてしまったので、沢山誤解を受けたのではないでしょうか。
まさに部分で全体を不当に評価されたのでしょう。
日記本と幼いころの写真と晩年来日された時の写真の印象のみですが、徹頭徹尾自らの感じる心に真摯に向き合って生き抜いた、しなやかな強さを秘めた女性だったのではと感じました。
経験が全てではないけれど、人は人と交わって生きた言葉を発するのだと思います。
生きている言葉は時空を超えて作用する。
矢川さんが人と交わり生きる中で発した言葉を今雪香さんが受け取ったように。
追伸:先日秋に咲く紫陽花を見た寺、まちがっていました。正しくは奈良の室生寺でした。失礼しました。
野溝氏の作品、後ほど図書館の蔵書にあたり探してみます。ありがとう存じました。
わたしはそういう種類の本は今まで読まないようにしてきました。いやなんです。
ただ、王朝女流文学の名作、和泉式部日記など思えば、いささかその気配がないとはいえない。彼女の恋のお相手は当代きっての貴公子ふたり、それから……と、あまりにも華やかでしたから。
かげろふ日記にしてもそうですね。トップレディの告白本とも解釈できる。イジワルになれば。
ですが、こうした古典たちが、掛け値なしの文学的魅惑をたたえているので、今も命をたもっている。
アナイスの日記も、きっとそうなんでしょう。読んでみたいですが、ずっとさきになりそうです。
どのように露悪的、逸脱した内容であっても、作家自身のまなざし、思考回路、自己認識のレベルは、伝わります。
和泉式部は日記の冒頭で、彼女自身を「もとも心深からぬ人……思慮の浅い女」と言いとっているのですが、ほんとに自省のない女性だったら、こんなことは述べないでしょう。
なぜアナイスが、和泉式部が、道綱の母が、「日記」にすがり、そこに人生の軌跡を託したのか……比較しつつ考えてみたいテーマですが。
学生時代をもういちど過ごしていらっしゃる笹百合さんがうらやましですね、こういうとき。
でも、わたしなりに、いま、実人生を編んでいます。
論文がんばってください。