市の星月夜日記

織江市の短歌、エッセイ

秋雨のにじむつまさきほの見ゆる路面迷はぬ恋もしやある

2008-10-23 17:28:20 | Weblog

 題詠「雨の恋」



 うたの世界では自由でありたいと思う。



 誰を思うでもないけれど、恋するこころはみずみずしい。

 
 パープルさん、もとい瀬戸内寂聴さんが「明日の虹」という携帯小説を書かれ、新境地だったとか。

 86歳。


 すばらしいと思う。


 短歌もまた、作者と離れてヴィジョンを呼びこむ。


 でも、実人生と混同されると、ほんとに困る。



 こんな但し書きめいたこと、いやなのだけれど。


 あれは実詠、こちらは幻詠、と説明しなくてはいけないのかしら。







 
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2 コメント

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実生活と想像の世界 ()
2008-10-24 22:45:50
想像の世界でもリアルにイメージが浮かんできて歌が出来るときがありますね。
でもこのあたりを短歌を知っている方、作っている方は理解してくださるのですが、歌に詠ったことはすべて事実と思われると困ってしまいますね。

この見方では既婚者が恋の歌を詠うと・・不倫していると思われかねません。
他のことでも短歌の場合事実より強く抽出された形で詠うときもあります。
それもその通りだと受け取られると困りますね。

私は自分が短歌を作るようになって小説家や歌人が筆名を使う意味が解ったような気がしました。
筆名の方が気が楽ですね。。
それにその方が自分でも現実の自分から離れて純粋でいられるみたい。
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虚構と現実 (雪香)
2008-10-25 08:29:34
こころのなかにある幻想や夢想、あるいは願望、かなしみ、いたみ、などいろんな情念をうたのかたちに昇華するのは、精神的なカタルシスをくれます。

こころの安定剤(精神安定剤という言い方はいやなのです)と言ったらよいでしょうか。

どんなひとでも、現実を生きている上で、さまざまな煩悶や物思い、挫折や不安、喜怒哀楽を抱えていると思います。

そのときどき、自分のこころにあまるものを、それぞれの個性の好みにしたがって、解消しようとするでしょう。買い物、旅行、おしゃべり、お酒を飲んだり、おいしいものをたべたり。カラオケ、喫煙etc.

わたしにとって歌はひとつの慰め、カタルシスの手段です。

ごく自然に詠っています。言葉とむきあって「無心に遊ぶ」のは、とてもたのしいのです。

それが現実生活と混沌と溶け合うのも同じ心からうまれるのだから仕方ないと思いますが、色眼鏡で見られるのはいやですね。

文学は文学。実生活とは違った宇宙なのに。

どんなひとでも、生活感から離れたゆめやあこがれはあるはずなのに。

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