昨日、たまちゃんと水道橋宝生能楽堂に「月並能」を鑑賞。
演目は、通小町、野宮、乱。 通小町のあとに狂言の佐渡狐が入った。
たまちゃんはお能鑑賞は初めてというが、とても気に入ってくれた。
この季節らしいきれいな番組で、衣装、能面、出演者、どれも楽しめた。
源氏物語を素材にした「野宮」はとりわけてなつかしかった。
原作でもこの巻は好きで、何度も読んだ。
御息所と光源氏の再会と別れ。
何度となく源氏から離れようと決意しつつ、結局御息所の恋情は切れなかった。
のちのち、彼女は死霊となってまで源氏にまつわりつくのだが、この「野宮」巻では
おぞましさは皆無で、しみじみとした晩秋の情趣と、女人の気品、なによりも御息所に対する執着を断てない源氏自身の心迷いが、嫋々と描写される美文と思う。
通小町でツレがかけていたのは「小面」だったそうだ。上演後フロアのスタッフらしい方に質問したら、丁寧に教えてくださった。
野宮では尋ねそびれたが、わたしの半ば素人眼には、「小面」よりもうすこし玲瓏とした陰影の漂う、あるいは「増女」ではなかったろうか。
シテの姿に白い女面が溶け込んで、うつくしい舞台幻想をくれた。
最後は陽気で縁起のよい猩々の舞でしめくくり。
年の瀬に、ちょっと疲れた心のお洗濯をした。
この日は、祖母の手縫いの大島紬と、大正時代の長羽織を着ていった。
紅色と白のデザインが今も斬新な羽織は、たぶん百年近く経っているが、まだしっかりとしている。
着物の命は長い。百五十年は、ふつうに着られるのではないだろうか。
羽織は今となってはヴィンテージ。染めも褪せず、縫いめもきちんと鮮やかだ。
このごろではもうめずらしいかもしれないので、たまちゃんが撮影してくれた写真を恥ずかしながら掲載します。