主日ミサにあずかる。
毎日曜日、ときには土曜の夕方の御ミサは、できるかぎり欠かさない。
祈りの時間、たぶんわたしは放心していることのほうが多いんじゃないかと思う。
神父様のおはなし、心のなかに浮き沈むさまざまな想念と混じりあいながら、勝手気ままに流れてゆく、そのさまは、さながら「唐紅にみづくくるとは……」と和歌にに詠われた小川のよう。
賛美歌を歌うのは大好き。発声練習なしで、いきなり歌いだすから、ところどころ喉がふるえる。でも、気兼ねなくのびのびと歌えるのは、教会でだけです。
賛美歌の旋律も好き。ことに、司祭さまは喉がお丈夫で音程がしっかりしている。朗々と唄われる。
今日の朝ミサでは、成人式を迎えた青年がひとり、神父様から祝福をうけました。
偶然か、今日で教会のクリスマスは終わり。ヨルダン川のほとりでヨハネがキリストに洗礼をさずけた「主の洗礼の日」
神父様の前で、緊張して表情の硬い若者のすがたに、聖別される寸前のイエス様を連想。冒瀆かな?
香油を注がれたのは、ヨルダンのほとりではないけれども、「油壺から抜け出た」聖なる色男だったイエス様に変身する前の、少年イエスを想像してしまいました。
キリスト以前のイエスを伝える一番好きな記述。
イエスが十二歳になったとき、過越の祭りでエルサレムに上り……の最後。
……イエスはますます智恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。
神と人から愛された。神からだけではなく、周囲のひとびとからも愛され、すくすくと育つ利発な少年が見えるような気がする。
キリストでない、ふつうの青年だって、さわやかできどらない素朴な心と姿のほうがわたしは好きです。自意識過剰はね……。