酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「1★9★3★7」~辺見庸が暴く記憶の墓

2016-01-31 23:56:54 | 読書
 毎日新聞の最新の世論調査によれば、安倍内閣の支持率は51%と旧に復した。これが現実で、俺を含めて反安倍の側は、何が足りなかったのか、何を目指していくべきか深く考え、再度スタートラインにつくべきだ。

 昨夏、国会前に何度か足を運んだ。場の熱さと反比例するかのように、俺がひとり冷めて佇んでいたことは、<もっと言葉を>、<祭りの後はもう嫌だ>、<断熱と伝導>といったブログのタイトルが示している。

 <民主主義を守れ>のアピールに「日本はいつから民主主義国家だったのか」、<戦争ができる国になってはならない>という叫びに「従犯としてアメリカの戦争に加担している日本人の手は、既に血でべったり汚れている」……。そんな風に心で反論し、早々に場を離れていた。

 俺が覚えた孤立の根っこにあるものに、ようやく行き当たった。1937年、そして2015年の日本を合わせ鏡として対照した辺見の新作「1★9★3★7」(金曜日刊)を読了した。「記憶の墓をあばけ!~戦後思想史上、最大の問題作」の帯のキャッチに偽りはない。<1★9★3★7はなにも清算されないまま不可視の怨霊としてげんざいにも、そしてこれからの未来にも生きつづけざるをえない>……。辺見はこう認識している。

 五臓六腑から吐き出される血色の言葉を受け止める側も、痛みを伴った反芻を求められる。本作では多くの作家や知識人が俎上に載せられているが、言葉の切っ先は誰より自身に向けられていた。辺見の言葉を垂れ流すことに意味はないから、咀嚼した上で感じたことを以下に記したい。

 ジャーナリストとして、小説家として、詩人として多くの栄誉に輝いた辺見は、冷厳な真実を詩的に表現している。とりわけ天皇制と死刑については洞察が深く、歌人の大道寺将司死刑囚(東アジア反日武装戦線)をサポートしている。講演会の冒頭、「公安の皆さん、ご苦労さまです」と切り出したことがあった。

 1937年とは、どんな年であったのか。4月にヘレン・ケラーが来日し、熱狂的な歓迎を受けた。そして12月、南京大虐殺が起きる。二つのアンビバレンツを辺見は<慈愛と獣性の抱擁>と表現していた。南京大虐殺を<人間の想像力が試される出来事>と評したイアン・ブルマ(「戦争の記憶」)だけでなく、日本軍の行為を堀田善衛が「時間」、武田泰淳が「審判」で記している。

 上記2作に加え、兵士の実体験に基づく告発、佐々木中将の詳細な記録を紹介し、辺見は中国戦線の真実を提示する。数を挙げることに意味はないとしながら、<女性に暴行しながら仲間に手を振る兵士>の姿は確実にあった。さらに辺見は、復員後の言動や回想録(新聞に連載)から、<父の戦争>に迫っている。時空を超え、自らを父の立場に重ねる。「わたしは果たして、蛮行に加わらなかっただろうか」と自問し、苦渋する。絶対にないと言い切れる人は存在するだろうか。常態になった狂気から逃れることは即、命令違反として死に直結した。

 辺見の父は小津安二郎のファンだった。中国戦線に従軍した小津が残した日誌に愕然とする。<チャンコロ(中国人の蔑称)が虫に見えてきて、人間に思えなくなり、いくら射撃しても平気になる>(要旨)とまで語っている。小津は戦争をテーマに映画を作らなかったが、中国で再会した山中貞雄は戦死した。山中が生きて帰国していたら、スクリーンに戦争の影を刻んだだろうか。

 父が小津と共有していたのは<皮裏の狂気>、<無痛の激痛>だったと辺見は想像している。彼らのメンタリティーは恐らく、多くの日本人が共有しているはずだ。平凡な父や夫が戦地で鬼になり、戦後は穏やかな顔で暮らしている……。色川大吉は、誰にでも起こり得る変容を聞き書きの形で記録していた。俺もまた、個人史を語らなければならない。辺見にとって父が、そして俺にとって祖父が、自身と戦争を繋ぐ回路だからだ。

 祖父は陸軍主計少将で、財政面で中国戦線全般を把握していた。祖父は俺が小学校1年の時に亡くなったが、「○○師団 行軍の記録」と題されたアルバムが遺品の一つだった。写っていたのは日本軍の残虐行為で、官製の侵略の記録である。近現代史を学び、写真が持つ意味を理解した頃、アルバムの行方はわからなくなっていた。

 祖父が〝負の記憶〟を廃棄しなかったのは、戦争の悲惨さを子孫に伝えるためではない。祖父は上記の小津同様、表面上はいささかの葛藤もなく、罪の意識はなかったと断言できる。「南京における暴虐はわたしが犯したことではないが、いかなる関わりもないといえるだろうか」との辺見の懊悩に、<国家はその罪に無限責任を背負う。決して外部化されず国民にも責任が問われる>との内田樹の指摘が重なった。俺の現在の思いを、祖父は泉下でどう考えているのだろう。

 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」はビートたけしの名言だ。1970年前後、クラスメートとともにデモに参加し、下火になるやキャンパスに戻り、企業戦士になった世代が、この国の現在をつくったわけだが、日本の軍隊を支えていたのも「全員参加型」の行動様式だ。みんなで行ったから罪の意識はなく、自身の言動も記憶から消される。辺見はその精神構造を<ニッポンという病>と表現したが、最も顕著な例として、訪米直前の昭和天皇の記者会見(1975年)を問題視しなかったマスコミを挙げている。1月21日付朝日新聞朝刊に掲載されたインタビューでも、幾分穏当に語っていた。

 開戦も原爆投下も仕方なかった。自分の責任ではない……。昭和天皇はこう話した。三島由紀夫は4年前に死んでいてよかった。自身が傾倒した美学を全否定されるような状況に直面せずにすんだから……。記者会見後、天皇とメディア、そして国民は共犯関係になった。「1★9★3★7」には識者たちの昭和天皇への絶望と批判が記されている。俺は当時、浪人生だったが、〝保守的な庶民代表〟である母の怒りが収まらなかったことを覚えている。

 辺見の父の回想で興味深い点があった。敗戦直後、辺見中尉の部隊は新四軍(共産党が中軸)の支配下に置かれる。父は裁きを覚悟していたが、新四軍は日本軍のために宴まで催したという。辺見は父が置かれた状況を<臈たけた大人(中国)と悪ガキ(日本)>と評しているが、俺には別の構図が浮かんでくる。

 新四軍の奇妙なほど寛容さに、昨今の爆買いが連なった。南京だけでなく日本軍の爪痕は、学校で、そして家庭で語り継がれているはずだ。憤怒に満ちた若者が東京のど真ん中で自爆テロを行い、中国政府が追認するなんて事態は起こりそうな気配がなく、憎き日本の製品に群がっている。いずれが大人で、いずれがガキなのか、それとも両方ともガキなのか、中国と日本の位相が時に倒立して見えてくる。

 戦争について考えたい人はぜひ、本作を読んでほしい。辺見の言葉は深く錨を下ろし、時に体を金縛り状態にする。だが、胃に残った固まりを消化すれば、新たな一歩を踏み出せる。2月は政治の季節の幕開けで、俺も休眠状態から覚める時機が来た。
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