酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「バグダッド・カフェ」でひとときの和みと温もり

2009-12-22 00:18:22 | 映画、ドラマ
 「まだ紅葉の季節だっけ」……。新宿中央公園をウオーキング中、ふと思った。紅葉は秋の季語だが、よくよく考えれば、新暦と旧暦には1カ月半のタイムラグがある。枯れてなくても不思議はないのだ。

 公園では炊き出しや古着配布が頻繁に行われる。「暮れが思いやられるな」「アテはあるのか」……。すれ違ったおっさんの会話に胸が疼き、反貧困ネットワークの賛助会員であることを思い出す。エイシンアポロンのおかげで不労所得(POGの収益)が入ってくる以上、些少なりとも寄付するのが俺にとって義務なのだ。

 それにしても、寒い。だから、温かい映画を見ることにした。先行ロードショーの「キャピタリズム」(マイケル・ムーア)と「マラドーナ」(エミール・クストリッツァ)を後回しに、「バグダッド・カフェ」のニュー・ディレクターズ・カット版を選んだ。

 オリジナル版が日本で公開された89年、「ダイ・ハード」、「レインマン」、「パペットの晩餐会」、「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」、「恋恋風塵」とスクリーンに大輪の花が咲き誇った。とりわけ鮮やかだったのが本作で、20年ぶりの再会で幾つかの発見もあった。
 
 「バグダッド・カフェ」経営者のブレンダは気性の激しい黒人女性だ。赤ん坊を抱えたシングルファザーの息子は店でバッハを弾き、娘は白人ドライバーとツルんでいる。怠惰なバーテンはアラブ系っぽいし、老ヒッピー風のルーディと女性刺青職人がモーテルに住み着いている。ネイティブアメリカンの警官は妙に融通が利かない。

 ラスベガス近郊の<カフェ+ガソリンスタンド+モーテル>に、なぜか<バグダット>が冠されている。本作はイラン・イラク戦争中(87年)に完成した。その後の湾岸戦争、アメリカのイラク侵攻、荒廃した現在のバグダッドを本作に重ねると、ある種の感慨に浸らざるをえない。「バグダッド・カフェ」は人種、年齢、性別を超越した新たな家族を提示したが、21世紀は民族と宗教が憎悪の根になってしまった。 

 砂漠で夫と別れたドイツ人女性のジャスミンが家族の一員に加わった。イメージカットの数々、ストーリーで果たす役割を考えると、ジャスミンには広い意味での芸人、表現者、放浪者の匂いがする。

 豊満な体格と親和力を合わせ持つジャスミンは、ブレンダの世界を柔らかく浸食していく。それがブレンダには癪でたまらない。異質な2人に生じた軋轢は、後半の急転回とファンタジーの伏線になっている。

 観賞時の状況によって、映画の印象は大きく異なる。今回、俺の心情にフィットしたのはルーディだった。33歳の頃(20年前)には気付かなかったが、ルーディの目を通した 、いや、俺の目にも、ジャスミンは実に魅力的だ。年齢や体形では測れない美しさが溢れ出て、童女のような笑みを浮かべつつ、他者の心の奥にあるものを掴みとっていく。

 看板が気球の形をした「バグダッド・カフェ」は、<心の故郷=帰って来る場所>の象徴なのだろう。繰り返し宙を舞うブーメランが、登場人物すべての気持ちを代弁していた。本作はルーディとジャスミン、ブレンダと家出したダメ亭主のエピソードが並行する秀逸なラブストーリーでもある。

 ホットココアを飲んだような和みに潤んだ後、ユーロスペースを出た。底冷えしたホテル街を、「コーリング・ユー」を口ずさみながら通り過ぎていく。20年前は振り向いてくれずとも、その名を呼ぶ<あなた>がいた。53歳の今、俺に<あなた>はいるだろうか。頭の中でそっと、ルーレットを回してみた。



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