弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

川越「唐人揃い」に行ってきた

2007年11月14日 | Weblog
 遅ればせの報告ではあるが、このあいだの日曜日、埼玉は川越で行なわれた「唐人揃い」の催しを見物に行って来た。
 確か夏に『ガイサンシーとその姉妹たち』を観に行った会場でもらったチラシの中に、この催しの宣伝用小冊子があり、それを読んで興味を持ったのだった。それでもだいぶ前のことだから忘れてしまっていたが、最近覗いたレイバーネットのイベントカレンダーに載っていたので、直前に思い出すことができたのである。

 「唐人揃い」とは、江戸時代の朝鮮通信使の行列を再現した「ねり物」(仮装行列──というより、今で言うコスプレである)の一種で、神田明神の祭礼に登場したのが最初という説がある。川越では「氷川神社祭礼」の出し物の一つとして、江戸時代を通じて恒例行事化していたという。
 といっても、川越は朝鮮通信使の通るルートではなかった。しかし1655年、江戸で通信使の壮麗を目の当たりにした榎本弥左衛門という川越の商人が、地元で何らかの働きかけをしたことが端緒となり、川越の名物の一つとまでなるような「唐人揃い」が始まったとされている。
 ちなみに唐人とは、当時の外国人一般を指す言葉で、必ずしも中国人のことではない。朝鮮人も大雑把には「唐人」と呼ばれていた。特に彼らの場合、同じ漢字文化圏でもあったから、なおさら「唐人」と呼ぶことに違和感はなかったのだろう(それなら日本人も「唐人」だという話もあるが)。
 だが、本当の「唐人」である中国とは長崎の出島を通じての通商しかなかったのに対し、朝鮮は当時の日本が唯一正式な外交関係を結んでいた国だ。その象徴である朝鮮通信使を迎える一般の日本人が、どれほど彼らの来日を楽しみにしていたか──衣装ばかりか、朝鮮の楽器を演奏し、朝鮮の踊りまで忠実に再現した、「唐人揃い」にそのことが表れている。
 なにしろ江戸時代の全期間を通じて、通信使の来日は12回(うち江戸まで来たのは10回)。長い時には30年近くブランクがあったりしたから、当時の平均寿命からすれば、一生に一度、観れるかどうかの大イベントだったのである。

 このあたりの歴史に関しては、いろいろあるwebサイト(たとえば実行委員会のHP)でも学べるが、実は同じ日曜日の夜、NHK教育「ETV特集~朝鮮通信使 400年の真実」というタイムリーな番組が放送されていた。が、僕はその日の新聞を読んでいなかったので、終わった頃になってようやくそんな番組をやっていたことに気がついたのだった・・・再放送望む。
 とにかく、最初の通信使の来日が1607年、今年はちょうど400年目の節目に当たるということで、日本でも韓国でも様々なイベントが行なわれたようだが、川越の「唐人揃い」はそれより早く、一昨年の2005年に「復活」し、今年が復活後三回目になる。

 あいにく空模様が怪しく、冷え込む日でもあったためか、客足は前二回に比べて鈍いものになってしまったようだ。でも僕はとても楽しめたし、来てよかったと心から思えた。
 「小江戸」の愛称で親しまれる川越の蔵造りの店が立ち並ぶ一角は、ただでさえ散策するのが気持ちいい、情緒あふれる場所だ。そんな家並みの間を、当時の通信使一行に扮した人々が通って行くのを観ていると、本当に江戸時代の町民のワクワクした気持ちが自分に乗り移ったように感じられて、楽しいというより、なんだかジーンとしてしまった。
 一方では江戸の当時と違い、現代に復活したこのパレードは、「多文化共生」を意識的に掲げるものでもあった。通信使の後に、民族衣装に身を包み、伝統楽器を打ち鳴らす在日の若者達が続く。さらにモンゴル~東南アジア諸国に至る、少数民族の伝統衣装にまとった人達。アイヌ文化を継承するグループ、沖縄のエイサーのグループ、さらには日本の盆踊りのグループまでも。最後の方には日本の子供達と、日本で暮らす外国人の子供達によるワークショップのメンバー達といった具合である(携帯のカメラであまりよく撮れていないが、写真を参照)。
 
 現代は確かに日本と半島の関係はしっくりいっているとは言い難い。だが、通信使が始まった当時も、似たような問題はあった。もともとこの通信使は、秀吉の朝鮮侵略に対する「戦後処理」の一環として企図された事業のようなものだった。だが庶民は、国と国とのややこしい事情などお構いなしに、異なる文化を味わえるだけ味わいつくそうとした。そんな、基本にある感性は江戸の昔も今も変わらない。現代の僕らは、歴史を重ねた分だけ、それを少しだけ意識的にやらざるをえないということがある。だがその程度の「意識」をケチるようなら、江戸時代の日本人と比べてさえ、おとなの民族とは言えないだろう。

 当日買ったパンフレットによると、「唐人揃い」は明治以降行なわれなくなってしまった。中国・朝鮮を侵略の対象とする国策に転じたことの影響だろうと指摘されているが、そのとおりだろう。
 パンフにはまた「関東大震災と川越」と題された、興味深い秘話が詳しく紹介されている。大正12年の関東大震災の時に飛び交ったデマ(「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「暴動を起こそうとしている」といった)に基づいて、数千人にも上る在日朝鮮人・中国人らが官憲および民間の「自警団」によって虐殺されたことは有名である。川越でも震災の最中、こうしたデマに惑わされ、町内の朝鮮人・中国人を狩り出そうとする血の気の多い住民がいた。しかし当時の川越市は、市内の朝鮮人・中国人を市役所内・警察署内にかくまい、武器を持った市民の侵入を最後まで押しとどめることに成功した。
 パンフの記述者は、川越には「唐人揃い」を楽しんだ歴史、そこに象徴される他民族の文化を受け入れる国際感覚が残っていた、その土壌によって悲劇を回避することができたとしている。そして、これこそが「川越の誇り」だ、と書いている。
 それは川越ばかりでなく、すべての日本人が共有できるはずの「誇り」だと思う。戦争しない歴史、人を殺さない、人殺しに加担しない歴史を積み上げていけるなら。
 万難を排して「唐人揃い」の復活を実現させた、川越の町の人達、全国から馳せ参じた参加者の人達の努力に、敬意と感謝の気持ちを表したい。来年はもっと盛り上がってほしい。


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2 コメント

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「戦後70年、アジアとともに」を本日みてきまして (アツ)
2015-09-23 02:56:42
浦和パルコ9階で、本日「戦後70年、アジアとともに」という展示会をみてきました。そのなかで「川越唐人揃い」の展示もありました。フェイスブックでその事を投稿するにあたり、参考になる記事を探していたところレイランダーさんのところにたどり着きました。
実は事あるごとにここにたどり着いています。そのなかでもパレスチナの人々にあてたマルコス副司令官の声明の訳詩の記事は、自分にとても大きな影響を与えてくれました。
そんな事も重なりまして、コメントさせていただきました。
自分もさいたまで音楽活動をしていますので、いつか会える日を楽しみにしています。

それでは。
>「戦後70年、アジアとともに」を本日みてきまして (レイランダー)
2015-09-27 20:02:45
アツさん

はじめまして。返信遅くなってすみません。古い記事まで読んでいただいて、ありがとうございます。
唐人揃いはこのあと、2回参加してますが、2012年が特に良かったです。韓国から若者達の「農楽隊」が来て、この打楽器を中心にした舞が素晴らしかった。普段いわゆる伝統音楽とか民族音楽とか、あまり関心ない方なんですけど、この「農楽(サムルノリ)」にはしびれましたね。
今年(11月15日)は彼らは来ないので出し物的には物足りないですが、各国料理の屋台とかも出て楽しいです。埼玉在住なら、ぜひ足を運んでみてください。

いつかどこかでお会いできるといいですね。何か活動の情報等ありましたら、コメント欄ででも(非表示にしますから)教えていただけたら、と思います。今後ともよろしく。

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