チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

ついに訪れることができた梅里雪山⑦---帰途、季節外れの豪雪で峠が越せない!

2011年04月03日 | 梅里雪山

 (峠を越す前日(28日)、初めて梅里雪山の連峰がその全容を見せてくれた。左から、メツモ(6054m)、ジャワリンガ(5470m)、プジョン・ソンデブーショ(6000m)、そして、右端が最高峰・カワクボ(6740m)。地元の伝説では、これらの山群は、一つの家族だと言われている。カワクボが王様、メツモがそのお后様。その両側の大小の頂は、二人の子どもや護衛の将軍たちだという。)

 

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 今回の梅里雪山行は、当初は、3月26日に帰国予定だった。しかし、帰途、季節外れの大雪のため、白馬雪山の4290mの峠が通行不能となり、ミンヨンの村に閉じ込められたまま、何日も待機を強いられた。

 帰りの航空券がダメになってしまうので、23日、24日と、4輪駆動の車をチャーターし、雪の峠道の突破を図った。峠下の街では、警察が、通行禁止措置にしていたが、「自己責任で行きます。」と一筆書いて、なんとか峠に向かった。

 しかし、峠の先で、やはり深雪で動けなくなり、引き返さざるを得なかった。峠付近には、数台の車が動けなくなって夜を過ごし、警察が出動するなどの騒ぎになったが、我々も、一歩間違うと、車に閉じ込められたまま、食糧もなく、夜を過ごさなければならなくなるところだった。帰りの航空券も、とうとう、この時点でダメになってしまった。若い頃から、何度も外国に出ているが、こんなことは初めてだ。

                        (峠付近。深い雪に、もう、動けない。)

                              (白馬雪山の4290mの峠)

 梅里雪山の登頂の困難さは、その気象条件の悪さによると言われている。今回は、乾期真っ最中の3月も末だというのに、峠が雪で何日も途絶するなど、ペマツモさんも、全く初めての経験だという。結局、11日から31日までの3週間で、晴れ間が出たのは、4日ほどだけだった。

 こうして、雨の降り続くミンヨンの村で、ただ、ひたすら天候の回復を待った。メコン河の河原にある温泉に行ったり、木耳を取りに行ったりと、それはそれで楽しかったが、やはり、テレビに流れる福島原発の報道にハラハラし、早く帰国したかった。ペマツモさんも、大学の新年度の手続があるので、焦っていた。チャシさんは、峠道をあきらめ、古馬茶道を北に辿り、2日かけて四川省に抜けるルートはどうかと言ってくれた。面白そうなルートで行きたかったが、一部、チベット自治区を通過するので、許可証を取得していない我々には無理だった。

 3月28日になって、やっと晴れ間が出たので、再度、挑戦したが、今度は、峠から下る車、上がってくる来る車が、除雪が不十分な細い道では離合が出来ず、結局、警察がまた、交通止にしてしまった。やむなく、麓のデーチンの街に泊まり、翌朝の午前7時、まだ暗いうちに出発した。そして、16時間後の午後11時、なんとかシャングリラの街に着くことができた。

 この時の運転手は、アニー・ラマというラマ教のお坊さん。彼は、お経のCDを流し、自らもお経を唱えながら、深い雪の道を見事に走りぬいてくれた。ヒヤヒヤするような雪の崖道だったが、お坊さんが、お経を唱えてくれているのだから、もう、何時、死んでもよいと開き直るほかない。

 (お経を唱えながら運転してくれたアニー・ラマ。広いチベットでも、活仏(ラマ)の資格を持ったタクシーの運転手は珍しい。「アニー」とは「お爺さん」のことだ。彼も、お孫さんには、もう目がない。)

 

 こうして、なんとか、3月31日に関空に戻ることができた。

 それにしても、遭難から20年、初めての梅里雪山行は、やはり、凄かった。井上たちは、「おお、来てくれたか!」と興奮して大雪崩を起し、そして、帰途は、「ええやないか、まだ帰るなよ。」と言って、私を、長く、ミンヨンの村に引き留めてくれたのだ。

 

 

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