精霊の宿り

BlogTop↑↑ 夜が来て、花は二つの花びらを閉じ、すべてを隠してしまうのだ。

日記1

2010年01月23日 16時56分30秒 | ノート note
 窓辺に春近い陽の光が散乱する。やわらかい光は北側の土蔵の白い壁に反射して窓越しにパソコンを置いてある机に注ぐ。冬至から一ヶ月を経た。娘は一週間後に出産予定日を迎える。今にも陣痛が始まるかもしれない。だが娘は落ち着いた様子でそのときが来るのを待っている。出産を経験したことがあるはずもないおれは、他人事のようでもあり、気ぜわしくしているようでもあり、落ち着いた妻や娘の様子をよそ目になにか心もとない。Keith Jarrett のバッハを聴きながら神経のざわめきを鎮めている。春先は何かがうごめく時季だ。孫なんてめんどうくさいものをと想うおれだが、昨春散歩していた道すがらぴょんぴょん飛び跳ねながら娘の妊娠を報告した妻の姿は更年期の不安定な時期を通り過ぎる予感を与えておれはうれしかった。妻ときたら自分の人生をあと十年、六十歳までと決めているのだ。この世でどんなに権勢を誇って偉い人になったところで行く先はみな棺桶の中。死に顔が安らかか苦悶しているかどうかわからないが生き物の屍に変わりはない。そのうちに辺りに臭気を漂わせて骨と灰になる。長生きして周囲に迷惑がられ醜態をさらすよりさっさと子を産んで育てあの世に行くことを望む妻をわからないでもない。妻は自分が生き物のひとつであることをわきまえているのだ。十九歳のときにすでに自分を産んだ母親の死を見ているのだから。葬儀に数百万円の金が必要だというのが一般の相場らしい。金の勘定などまったく苦手なおれはそんな浮世のことは妻に任せて自分は山の中で誰知れず朽ちる猿か猪か山犬か、仙人でもないくせにはわびしい死が似合いだと気取っている。妻もおれも娘が家に戻ってきたのでこころが落ち着いたのだ。
 春はまだ遠いかもしれない。寒気が戻って冷たい氷が張るかもしれない。だが春を待つ心に日々平凡であることの非凡を噛みしめていたいと想っている。
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