経堂めぐみ教会

礼拝メッセージの内容です。

9月16日敬老の日礼拝 「いのちのパン」

2018-09-17 11:58:59 | 礼拝
聖書:出エジプト16:11~21   

「森永マンナ」というお菓子をご存知ですか?「マンナ」とは、旧約聖書「出エジプト記」に出てくる神様が与えてくださった糧「マナ」にちなんでつけられました。この「マンナ」の箱の側面に「マンナ」の由来が次のように書かれています。「マンナという語は旧約聖書にある“神の荒野をさまよえる民に与え給うた愛の食べ物mannaマナにちなんでいます”」今日は、愛の食べ物マナについて見ていきます。


Ⅰ:イスラエルのつぶやき

イスラエルの全会衆がエジプトを旅立ち、シンの荒野に入った時、イスラエルの全会衆はモーセとアロンにつぶやきました。
(3)「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
 エジプトを出てからしばらく経ち、食べる物がそこをついていました。200万人以上の人々の食糧を確保することは大変なことでした。彼らは奴隷の身分だったので、実際にはエジプトで肉なべを食べ、パンに満ち足りていたわけではなかったでしょう。むしろむちで打たれながら苦役を課せられていたのです。しかし彼らはそこから救い出されたことを忘れてしまい、早くも不平不満を言うようになっていました。
(2)「イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。」と記されています。「つぶやく」は、tweetするということですが、小鳥がさえずるように、ぶつぶつと小さい声で一人ごとを言うようなことです。新改訳2017では、「不平を言った。」と訳されています。「つぶやき」よりも、もっとはっきりとしたことばが使われています。また、「全会衆」とありますように、一人二人ではなく、全会衆が一つとなって、モーセとアロンに不平を言ったのでした。
 
イスラエルの会衆はどうしてつぶやいたのでしょうか?それは、目の前の問題に捕らわれて、目の前のことしか見えなかったと言えると思います。エジプトから解放された祝福、以前神様が良くしてくださったことを忘れてしまっていたのです。一方、モーセはどうだったでしょうか?モーセは解決策を持っていたわけではありませんが、これまでの経験を通して、神が導き出したご自分の民を荒野で飢え死にさせるようなことは決してなさらないという確信がありました。
(詩篇103:2~5)「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」
 そしてモーセは、イスラエルの民のつぶやきを聞いた時、すぐに神に祈ったことでしょう。本来、食料が不足した時、イスラエルの民がすべきことは、モーセにつぶやくのではなく、神様に祈るべきだったのだと思います。これまで守り助けてくださった神様は、これからも私たちを守り続けてくださいます。


Ⅱ:愛の食べ物マナ
 
イスラエルのつぶやきを聞かれた神は不思議な食べ物を用意されました。主はモーセに告げて言われました。
(12)「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」
神はイスラエルをあわれみ、天からパンを降らせるようにしました。

天からのパンとは、どのような物でしょうか。
(13~15)朝、彼らが目覚めて外に出ると、宿営の周りの露が上がった後に、地面には、白い霜のような細かい物、うろこのような物がありました。本当に天からパンが降ってきたのです。イスラエル人にとっては初めて見る物でした。イスラエルの民はこれを見て、「これは何だろう」と言い合いました。「これはマナである。」とも訳すことができます。モーセは民衆にこれは神が私たちに与えてくださったパンだと説明しました。
(16~21)そこで主は集め方を命じられました。それぞれ自分の食べる分だけ集めるように。一オメルは、2.3リットルです。人数に応じて一日の必要な分だけ集めるようにと言われました。このマナは、毎日その日の食べる分を集めなければならず、翌日の分まで集めておくことは許されませんでした。またその日の分はその日に食べなければなりませんでした。ところが、神の指示に従わず、翌日まで残しておいた者は、翌日マナを集めないで、それを食べようとしたところ、虫がわいて腐っていて、食べることができませんでした。味はどんな味だったのでしょう?味は、蜜を入れたせんべいのよう(31)、またクリームの味のようと記されています。今でいうウェハースのような食べ物かもしれません。このマナは、安息日を除けば、一日たりとも決して止むことはありませんでした。この天来のパンは、彼らがカナンの地に入るまで毎日続きました。

アンパンマンの生みの親、漫画家のやなせたかしさんは、2013年94歳で召されました。
アンパンマンの顔は真ん丸いあんパン。格好はよくないし、顔が水にぬれると力がなくなってしまいます。自分自身弱さを持っていますが、それでも困っている人に出会うと、自分の顔を食べさせ、ぼろぼろになっても人を助けます。戦争を通られた、やなせさんは、戦後、勧善懲悪のかっこいいヒーローはたくさんでましたが、本当のヒーローは飢えや苦しんでいる人を助ける人であり、正義とは犠牲の中に表されると言われました。

やなせさんは、アンパンマンを制作したきっかけについて次のように述べています。
 正義というものはいったい何か。ミサイルで相手をやっつけることなのか、あるいはそこに来た怪獣をやっつけることなのか。僕はそうでないと思ったのね。本当の正義の味方だったら、そこにお腹をすかせた子供がいたら、その子供にパンをわけて与える人が正義の味方なんだと思ったんです。
 海外にはストリートチルドレンがいっぱいいるし、次から次へと子供たちが命を落としている。それはなぜか。飢えで死んでいるんだ。食べるものがない。本当に正義の味方だったら、飢える子供を助ける方が先なんじゃないか…。
 だから飢えている子供を助けるヒーローを作ろうと。その場合、一番簡単なファストフードは何か。日本でいえば、「アンパン」だと思ったんです。飢えを助けることができるし、甘いからお菓子にもなる。それに音の響きがいいでしょ。ジャムやクリームというより、「アン」「パン」という韻を踏んだサウンド。アン、パン、マン、という音の響きの良さで選びました。アンパン、僕自身も好きですよ。俺の子供の頃は、「アンパン」「せんべい」「キャラメル」くらいしかなかったんだよ。

 神様はイスラエルを愛するがゆえに、彼らのつぶやきを聞き、天からマナを降らせました。神様は私たちにも同じようにされ、約束の地に入るまで必要を与え養ってくださいます。


Ⅲ:いのちとは時間

次に、これまで見てきました天から降ってきたマナには、深い霊的な意味があります。
 イエス様はヨハネの福音書6章で次のように説明しています。
(32~33)「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
神ご自身がマナを通してイスラエルの民を養われました。そして新約の時代、神は天からまことのパンをお与えになります。神のパンである主イエスが「天から下って来て、世にいのちを与える」からです。
(35)「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
 イエス様は「わたしがいのちを与えるパン」だと言われました。モーセの時代のパンは、ただ単に人々の肉体の必要を満たすためのものでした。しかし実は、人々に霊的ないのちを与えるパンがあり、そのいのちのパンがイエス・キリストです。ちょうどマナが天から降って来たように、キリストは天からこの地上に下り、全人類の罪を背負い、身代わりとなって死んでくださいました。
このイエスを信じる者は、決して霊的に飢え渇くことがなく、また決して死ぬことがなく、永遠に生きるのです。

 ところで、「いのち」とは何でしょう?
日野原重明さん(元聖路加国際病院名誉院長)は、105歳でこの世を去りましたが、晩年小学校に出向いて、「いのちの授業」を行いました。先生は、人生において最も大切だと思うことを次の世代の人たちに伝えていく活動を続けました。先生がテーマとしてきたの「命の尊さ」です。
日野原さんは、60歳頃「よど号ハイジャック事件」に遭遇し、ハイジャックされた飛行機に乗り合わせ二日間機内で人質になりました。その経験が彼の人生観を大きく変え、それ以降は自分の人生を他の人のために使いたいという決意を強めたそうです。
              
先生はクラスの中で、子どもたちに「自分が生きていると思っている人は手を挙げてごらん」と言うと、全員が手を挙げます。
「では命はどこにあるの」と質問すると、心臓に手を当てて「ここにあります」と答える子がいます。先生は聴診器を渡して隣同士で心臓の音を聞いてもらって、このように話を続けます。
「心臓は確かに大切な臓器だけれども、これは頭や手足に血液を送るポンプであり、命ではない。
命とは感じるもので、目には見えないんだ。君たちね。目には見えないけれども大切なものを考えてごらん。空気見えるの? 酸素は? 風が見えるの?でもその空気があるから僕たちは生きている。このように本当に大切なものは目には見えないんだよ」と。
さらに先生は続けます。「命はなぜ目に見えないか。それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい」と言われます。

 日野原先生は、いのちとは時間と言われました。そしてそれをどのように使うか、何のために使うかが問われているのだと思います。
パンは生きていく上でとても大切なものですが、イエス様はもっと大切なものがあると言われました。(マタイ4:4)「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と。人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって、いのちが与えられ、養われ、生かされるのです。
イエス様のことばを聞いて、今さらですが確かにそうだなと思います。人は生きていくために、パンを求めていかなければなりませんが、確かに、それだけでは生きていけないのだと思います。私たちは心があり、霊やたましいを持っていますので、誰かを愛したり、愛されたり、神様を信じたり、使命に生かされるなど、そのような中で本当の幸せを感じることができるのでしょう。与えられているいのちをどのように使うか考えさせられます。「私はいのちのパンです」とイエス様は言われました。まことのいのちに生かされていく私たち一人ひとりでありますように。


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