経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

10月7日 「備えられた道」

2018-10-08 18:09:26 | 礼拝
ヨシュア記3章6~17節

ヨシュアとその民はいよいよ神が与えると約束した地カナンに入って行きます。しかしそのためには、ヨルダン川を渡らなければなりませんでした。直面する困難の中、ヨシュアとイスラエルの民は、主に守られ、道が備えられて、約束の地へと導かれます。


Ⅰ:主が先立って行く

 ヨシュアは朝早く、イスラエルの人全部と一緒に、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、川を渡る前そこに3日滞在しました。
(3~4)「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」
民が命令されたことは、主の契約の箱を見て、宿営を出発し、契約の箱を見て進めと言うことでした。主の契約の箱をかつぐ祭司たちが先頭に立ち、民はその後をついていきます。「主の契約の箱」の中には、主がモーセに与えた十戒を刻んだ二枚の石の板が納められていました。神が民の先頭に立って行かれます。
 民と箱との間には、二千キュビト、約900メートルの距離をおかなければならず、それに近づいてはなりません。イスラエルはこの聖なる箱を見ながら進んで行きます。こうして、主が彼らの先頭に立って進み、行くべき道を導かれます。全イスラエルがヨルダン川を渡るという特別な経験は全く未知なるものでした。私たちが今まで通ったことがない新しい道を主は先頭に立って導かれます。

詩篇119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
 私たちはどっちを選んだらよいか、どっちの道を進んで行ったらよいか迷うことがあります。聖書のみことばは私の足のともしび、私の道の光となってくれるのです。「ともしび」とは、ずっと先を照らすのものではなく、足元を照らす灯りです。遠い未来のこともそうですが、今直面していることについて、これから進む道を照らす光となってくれるのです。イスラエルの民を約束の地に導き入れた主は、私たちが行く正しい道を教えてくださいます。


Ⅱ:主が共にいる

(7~8)「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」
 主はヨシュアを大いなる者とすると約束されました。この奇蹟を通して、主がヨシュアと共にいて、指導者として立てられていることを民が知り、信頼するようにされます。
(10~11)「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。」
生きて働かれる神があなたがたと共におられます。カナンの地には多くの力強い先住民が住んでいましたが、神は生きて働かれ、あなたがたの前からすべて追い払われます。主がヨシュアとその民と共にいたように、私たちと共にいてくださるのです。

(1:9)「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
主はヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。」と励ましを与えます。ヨシュアの心の中は不安や恐れでいっぱいでした。大丈夫だろうかと恐れおののいていました。今ヨシュアはモーセの後、民を率いるリーダーとして立てられました。すでに40年前に、ヨシュアはカナンの地を偵察したメンバーの一人でした。カナンの地が乳と蜜が流れる豊かな地であると同時に、そこに住む者たちは背が高く、力強いことも知っていました。自分たちがいなごのように見えたとも言っています(民数記13)。またイスラエルの民の不信仰やかたくなさも見てきました。ヨシュアの心は不安と恐れで覆われていました。神さまはそのことをよくご存知であり、わたしがあなたと共にいる。「強くあれ。雄々しくあれ。」と励まされるのです。

(ヨハネ14:27)「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。」
「わたしの平安」イエス様自身がいただいている平安です。そしてイエス様が共におられるところの平安です。それは状況に左右されることのない平安です。私たちもさまざまな状況の中で、不安や恐れの中を通って行くことがあります。イエス様の平安で心を満たしてください。


Ⅲ:主が道を備える

 イスラエルの民はヨルダン川を渡ろうとして天幕を出発し、祭司たちが契約の箱をかつぎ、民に先立って行きました。
(15~17)「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、―ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが―上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」
 この時期は、刈り入れの季節で、雪解け水のため、曲がりくねった細い川の流れではなく、外側の広い両岸いっぱいにまで広がり、水量は多く、勢いよく流れていました。アダムの町はヨルダン川のほとりにあって、そこで川の水がせき止められ、死海に下る水は完全にせき止められました。

川の水がせき止められたのは、いろいろな説明がなされますが、急に山崩れが起こって、一時川の水がせきとめられたとも言われます。しかしヨシュアと民が渡ろうとした時に、せきとめられたのは、モーセとその民が紅海を渡ったときのように、奇蹟としか言いようがありません。渡ろうとして一歩踏み出したときに、川はせき止められたのですから。

ある牧師は、信仰について次のように述べています。
「川の水がかれてから渡ることは困難なことではありません。しかし、神の言葉を信じて、川の水がいまだ両岸に満ちている時に、神の言葉を信じて、足を水ぎわに入れることは難しいことです。しかし、信仰とはそのことであり、聞いた御言葉に従うことです。現状がどうであれ、神を信じ従っていくことです。そしてそのとき神の栄光を見ることができるのです。
神はその状況を創造された方であり、その状況を変えることができる方である。たとい造られた世界がどのようであろうと、私たちは驚いてはならず、どんなときにも、状況を造られた方は、それを変えることができるのであり、その方のお言葉を信じ拠り所とするところに、私たちの信仰がある。」と。

この箇所から教えられるのは、どんな状況でも主に信頼していくならば状況が変えられ、道が開かれていくということです。
2000年7月、韓国の女子大生イ・チソンさんは、交通事故で全身大やけどを負いました。親指を除く8本は切断され、顔が完全に変わってしまいました。意識を取り戻した彼女はこう言いました。「お兄ちゃん、こんなになって、とても生きていけないわ。私を殺して。」治療は壮絶なものでした。目を覆いたくなるような治療を終え、事故から7か月後、チソンは退院することができました。しかし、彼女はやけどを負った顔を受け入れることができませんでした。教師になりたかったチソンは子どもたちから「怪物」と呼ばれたのです。「いっそ死んでしまえばよかった」と思うこともありました。極力自分の顔を見ないようにしましたが、苦しい気持ちに打ち勝つため、チソンは鏡に映る変わり果てた自分に手を振り、こう話しかけました。「こんにちは、イ・チソン。」すると、鏡の中のチソンも挨拶を返しました。「チソン、愛してるわ。」こうして少しずつ新しい自分を受け入れられるようになっていったのです。
そして事故から5年後の秋、チソンさんはリハビリテーション・カウンセリングを勉強するために、ボストン大学院に入学しました。リハビリテーション・カウンセリングとは、障害者となった人たちの心を癒すことを目的とするものです。彼女は自分と同じ苦しみにあっている人たちのために何かできることをしてあげたいと願うようになりました。絶望の淵を通った彼女の人生はまた新しく始まりました。
「私は今、しあわせ」と言います。神様はいつもチソンと一緒にいてくださった、愛し、慰め、励ましてくださいました。神様が共にいてくださると思うと、苦しく泣くことがあっても、不思議な平安で心が満たされたのです。

(Ⅰコリント10:13)「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会せるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
主は試練とともに、脱出の道をも備えてくださいます。ヨルダン川の水をせき止め、乾いた地を表し、道を備えられた主は、私たちのためにも道を備えてくださいます。水の中に一歩足を踏み入れた時、不思議が起こったように、私たちの生涯にも御業を表してくださるのです。生きて働かれる主を信じます。行く道を導きください。
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