経堂めぐみ教会

礼拝メッセージの内容です。

8月19日「私は何者なのでしょう」

2018-08-20 17:17:06 | 礼拝
出エジプト記3:7~12 「私は何者なのでしょう」

(11)「モーセは神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』」

神はエジプトで苦しんでいるイスラエルの民を救うために、モーセを選び使命を与え、エジプト王パロのもとに遣わします。しかしモーセは、「私はいったい何者なのでしょう。」と戸惑い、なかなか受け入れることができませんでした。私たちにもそれぞれ違った使命が与えられています。どのような使命が与えられているでしょうか。

Ⅰ:何のために生きるのか

(9)「見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。」
 エジプトではヨセフの時代が過ぎて、新しい王の時代となりました。エジプト人はイスラエル人を恐れ、苦役で苦しめようと過酷な労働を課しました。(1:14)「粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに化する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。」とあります。
(2:23~24)「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ」ました。
(10)「『今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』」
 神はモーセに対して、ご自分がイスラエルの民の窮状をご存知であることを告げられ、それゆえ私は今この民を救おう、そしてその救いのために、あなたを遣わすと言われました。しかし、モーセの反応はどうだったでしょうか。

(11)「モーセは神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』」
 モーセは明らかに驚き、動揺しているのがわかります。私はいったい何者なのか。どうして自分がその役に当たらなければならないのかと。他の聖書の訳では「どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」と、驚きというよりも、どうして自分がしなければならないのかと不平不満が表されています。
 この時のモーセは神様の命令を快く受け入れることができませんでした。以前のモーセでしたら、自分から同胞の民を救おうとしたぐらいですから、快く受け入れていたでしょう。しかし、今は、エジプトで仲間から受け入れられず傷つき、いのちからがらミデヤンの荒野に逃げ、そこで妻子が与えられて新しい生活が始まり40年間という月日が経っていました。この時モーセは80歳でした。今さらパロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは、「私はいったい何者なのか」と自問したのです。

 私は最初の仕事に就いた時、長く続けることができませんでした。それまで受験や就職というように目標を持って生きてきましたが、仕事に就いてからは、これから何を目標にすればよいのか、何のために働いていくのかが分からなくなってしまいました。バブルの時でもあり、新しい仕事を見つけるのはそれほど難しくはありませんでしたが、これからどのようにしたらよいのか自分自身を探す時期がしばらく続きました。

Ⅱ:私を必要とする誰かが何かがある

 この後も4章にかけて、モーセの神様への言い訳・弁解が続きます。
(4:1~2)「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。主は彼に仰せられた。『あなたの手にあるそれは何か。』彼は答えた。『杖です。』」
 杖を地に投げると、杖は蛇となり、蛇の尾っぽをつかむとまた杖に戻りました。神はいくつかの奇蹟を見せて、イスラエルの民がモーセに従っていくことを伝えようとしました。
 しかし、モーセの言い訳、弁解はなお続きます。
(10)「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
モーセは吃音があり、言葉を話すのに不自由がありました。
(11)「主は彼に仰せられた。『だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。』
(12)「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
(13)「すると申し上げた。『ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。』」
(14~16)「すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。『あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。』」
 神は話が上手な兄アロンをモーセのために呼びます。言い訳し続けたモーセは、神様とのやり取りを何回も繰り返してやっと従います。神様は本当に忍耐深いお方です。

 心理学者であるビクトール・フランクルという方は、「人間は、人生から問いかけられている」と言われました。私たちは、こういう人になりたい、こんな人生を送りたいとそれぞれ願いを持ちますが、思い通りにならないことが多くあります。フランクルは、「夜と霧」を書いた作者です。彼はユダヤ人という理由で、家族ともどもアウシュビッツへ、最後は強制収容所へ送られて、そこで終戦を迎えます。家族すべてを失いますが、奇蹟的にフランクルだけ生きて帰ります。そこで起きたことをまとめたのが「夜と霧」です。
 彼はその本の中で次のように述べています。
「すなわち人生からなにをわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると言えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。」
 フランクルは、人間は「人生から問われている者」だと言います。ですから、人間のできること、しなくてはならないことは、その都度さまざまな状況から発せられてくる問いに全力で応えていくこと、そして、そうすることで自分の人生に与えられている使命をまっとうすることにある、と言われます。
 フランクルは収容所の中でまわりの人たちがどんどん亡くなっていく中、生きて自分の妻に会うこと、自分の娘に会うことを心の支えとしました。また収容所を出たら、ここで行われていたことを世界に知らせることを自分の役割使命としました。自分を必要としている誰かがいる。自分を必要としている何かがある。それに応えていくことが使命を全うすることであり、フランクルが言う生きる意味だと言うことです。
 私たちにとって、自分を必要としている誰か、自分を必要としている何かとは何でしょうか。そしてその誰かや何かのために、私たちにできることは何があるでしょうか。

Ⅲ:役割使命を担って生きる

(12)「神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。』」
「わたしはあなたとともにいる。」と言われました。神は約束のみことばを与えてモーセを力づけました。神は使命を与え遣わすだけではなく、遣わした者と必ず共にいてくださいます。
(マタイ28:19~20)「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
イエス・キリストが弟子たちを遣わすときにも、主イエスは遣わされた者と世の終わりまで共にいることを約束されました。神は使命を与え、私たちがその使命を全うすることができるようにしてくださるのです。

 以前都内のメディカルカフェに行った時、お一人の方としばらくお話しをしました。その方はがんが再発し手術を繰り返している人でした。近くまた手術を控えていると言っていました。しかしここに来て話をすると心が落ち着くそうです。いつ再発するのかなど不安がありますが、カフェに来て、いろいろな境遇の方たちと話をすることによって、悩んでいるのは自分だけではなく、自分と同じ苦しみを抱えている人が大勢いることに気づき、勇気が与えられ、また頑張っていこうという気持ちになるそうです。その方は自分の体調がよくないのに、「今度、カフェを始めたら、きっとその地域の人たちの助けになります。ぜひやってください。その時は私も行きます。」と私の方が励まされました。その時思ったのですが、この人は病気ではありますが、病人ではなく、自分の役割使命をしっかり担って生きている人だなと感じました。

 私たちは普段使わされている所も別々ですし、負わされているものもまちまちですが、今負わされている物が自分にとっては荷が重すぎて大変だと感じている人もいるかもしれません。大きすぎて抱えきれず、そこから逃げ出したいと感じているかもしれません。しかし神は共にいてくださり、私たちの悩みや痛みを知り、必要な助けを与えてくださいます。神様からの召しを受け止めていきたいと思います。
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