経堂めぐみ教会

礼拝メッセージの内容です。

9月30日 主がともにおられる

2018-09-30 22:23:34 | 礼拝
民数記13章25節~14章9節


(14:9)「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
約束のカナンの地に入る前に、ヨシュアとカレブが恐れるイスラエルの会衆に対して語ったことばです。カナンの地に入って行くのは、私たちだけではない、主が共におられるのだ。そして主が成し遂げてくださるのです。だから恐れてはなりません。私たちも一人で進んでいくのではありません。主が共におられるのです。今日はこのみことばを中心に見ていきます。


Ⅰ:背の高い民と町の城壁(13:25~29)

今日は、カナン偵察と言われる箇所です。イスラエルの民がいよいよ約束の地カナンに近づいた時、バランの荒野で、主はモーセに、各部族から一人ずつ選び、カナンの地を調査・偵察するように命じられました。神がイスラエル人に与えようとしているカナンがどんな所か探らせるためでした。十二部族から一人ずつ選び、12人を偵察隊として派遣しました。
そして調査内容については、①住民について。ネゲブの山地に住んでいる民が強いか弱いか、少ないか多いか。②住居について。宿営か城壁の町か。③土地について。肥えてい
 
12人の偵察隊は、モーセの命令に従い、パレスチナの南の端から北の端まで行き巡りましたが、その詳細については明らかにされていません。彼らは出発してから40日後にモーセと会衆のところに戻って来ました。そしてその地で穫れた果物を見せて報告しました。
(27)「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」
 その土地は、「乳と蜜が流れる」肥沃で豊かな土地でした。その証拠に取ってきた果物を見せたのです。ちょうどこの季節7~8月は、初ぶどうの熟する頃でした。

次に、そこに住む住民と町の様子について報告しました。
(28~29)「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」
 そこには、「アナクの子孫」が住んでいました。アナク人は背が高い力強い民族でした。その子孫が山や海、川沿いなど至る所に住んでいたのです。そして町々はとても大きく城壁に囲まれていました。
 以上が偵察隊の報告ですが、イスラエルの全会衆は、その報告を聞きながら、現実を知り恐れを感じたことでしょう。いよいよ約束の地に入ろうとする時に、その地には背の高い力強い民がいて、町は城壁に囲まれていたのですから。目の前に立ちはだかる高い壁に押しつぶされそうでした。
 私たちも日常生活の中で、将来のことや健康のこと、また仕事のことなどで、現実に押しつぶされてしまいそうになることがあるでしょう。


Ⅱ:必ずそれができるから(13:30~33)

(30)「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。』」
 イスラエルの会衆からつぶやきと嘆きが起こるなか、カレブはモーセの前で、民を静めて語りました。私たちは必ず上って行くべきだ、かの地を所有すべきだ、なぜなら、かの地を必ず所有することができるのだからと説得しようとしたのです。「新改訳2017」では、「必ずそれができるから」は「必ず打ち勝つことができます」と訳されています。カレブの発言は、主の名も信仰も出てきませんが、信仰を土台としていることは明らかでした。
 しかし、他の10人は(31)「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」また(32)彼らは偵察した土地について会衆に悪く言いふらしていました。その地は戦乱の地であり、「私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。」(33)「私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と、「新改訳2017」では、「いなご」が「バッタ」と訳されています。彼らの前では自分たちがいなごやバッタのような小さな者に見え、とても戦える相手ではないと言い広めたのです。

カレブは勇気がある実直な人だと思います。10人の偵察隊と全会衆が消極的な否定的な態度の中、彼は声を上げて、「必ずそれができるから。」と言いました。いつの時代もそうですが、数の多さや強さに流されてしまいやすいですが、カレブは自分の心に正直に正しいと思ったことを勇気を出して話しました。
カレブは晩年次のように語っています。
(ヨシュア14:10)「今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。」
(11)「しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」
(12)「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」
 この時、カレブは85歳になっていましたが、カナン偵察に行った40歳の時と同じように、壮健で、困難に立ち向かう勇気を持っていました。それは、「主が共にいてくだされば」というのが条件でした。「神が共にいてくださる」ことが、カレブに困難に立ち向かう勇気と力を与えていたのです。信仰は私たちに勇気と積極性を与えます。
 
10人の偵察隊は背の高い人たちを前に「自分がいなごのように見えた」と言っています。私たちはしばしば、大きな問題にぶつかる時に、自分の弱さ、無力さに気づき、そのように思うことがあるでしょう。神を見失ってしまうと、現実だけがどんどん大きく見え、自分がむやみに小さくいなごのように見えてきます。どんなときにも、神様が共にいることを信じ、そこに望みをおいて生きる時、たとい自分がいなごのようであっても、巨人に向かって行くことができるのだと思います。カレブは共におられる主を信じていたので「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言うことができたのです。私たちも信じてそのように言いたいものです。
(Ⅰヨハネ5:5)「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」


Ⅲ:主がともにおられる(14:1~9)

 イスラエルの全会衆は12人の斥侯の報告を聞いて、大声をあげて一晩中泣き明かしたと書いてあります。また、彼らはモーセとアロンにつぶやきました。
(2~3)「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
(4)「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」
 イスラエルの全会衆は、ヨシュアとカレブの意見ではなく、他の10人の斥侯の意見に同調しました。彼らは不平不満を言い、モーセではなく、別の人をリーダーとして立ててエジプトに帰ろうとまで言いました。

 モーセとアロンは、全会衆のつぶやきを聞いた時、とっさに神の前にひれ伏し祈りました。ヨシュアとカレブは自分の衣を引き裂き、会衆を懸命に説得しようとしました。
(7)「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしい良い地だった。」
(8)「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には乳と蜜とが流れている。」
(9)「ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
 ヨシュアもまた、信仰の人でした。主が共におられるので、彼らを恐れてはならないと伝えたのです。しかし、全会衆は聞き入れず彼らを石打にしようとしました。このことが原因で、イスラエルの民は約束の地に入るまでに、10日余りで行けるところを、40年間荒野を放浪することになるのです。

 新約聖書からマタイの福音書8章:23~27節を開きます。
「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。『主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。』イエスは言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』

 イエス様と弟子たちを乗せた舟は、突然の暴風雨で沈みそうになります。弟子たちは寝ているイエス様を起こし、「おぼれそうです。助けてください。」と叫びました。するとイエス様は弟子たちの信仰をたしなめ、風と湖をしかりつけ嵐は静まりました。
 私たちは、神様を信じていましても、さまざまな試練に遭います。しかし、私たちにとって大きな違いは、私たちが一人で歩んでいくのではなく、イエス様が共に歩んでくださるということだと思います。私たちの人生を左右するのは、問題そのものではなく、その問題をどのように受け止めていくかということです。問題ばかり見ていくなら、心は恐れに支配されてしまいます。しかし「主は私とともにおられる」、この状況から助けてくださると信じていくなら、必ず神は道を開いてくださいます。私たちは人生の小舟に乗る時に、決して一人ではなく、いつもイエス様が同船しているのです。

最後に、オリンピックでの陸上競技であった話を紹介します。
1992年バルセロナ・オリンピック、陸上男子400m準決勝のレースでのことです。優勝候補だった英国代表のデレク・レドモンドは、最初は順調に走っていましたが、160m付近で突然右足にけいれんを起こし、動けなくなりその場でうずくまってしまいます。他の選手たちがゴールし終わったその時、デレク選手は立ち上がり、足を引きずりながら、自分のコースを守り必死にゴールを目指して走り続けます。最終コーナーにさしかかった時、係員の制止を振り切って一人の男性がコースに乱入してきました。レドモンド選手のお父さんでした。息子の姿を見かねて走り寄ってきました。お父さんは息子の肩を抱きかかえ「もう走らなくてもいいんだよ」と言うと、デレクは泣きながら、「いや、やらなきゃいけないんだ」と答えます。父は泣きながら行こうとする息子と一緒にトラックを歩き始めました。レドモンド選手はこれまで何度か怪我に泣いてきました。その度に父親のジムさんに励まされやっと手にしたオリンピックでした。父親のジムさんも同じ思いでオリンピックにやってきました。スタートしてから、2分47秒、6万5千人の拍手に迎えられたゴールでした。
レース後のインタビューで、お父さんは「これまで一緒にやってきたから、あの瞬間じっとしてられなかった。」と振り返ります。「最後まで走り抜こうとした息子を誇りに思う。」と語りました。
同じように、天の父なる神様は私たちが人生のゴールを迎えるまで共にいて励まし支え、そして私たちを誇りに思い「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言ってくださるのです。
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