経堂めぐみ教会

礼拝メッセージの内容です。

1月6日新年礼拝 「主よ。お話しください」

2019-01-08 11:24:02 | 礼拝
聖書:Ⅰサムエル3:1~10 「主よ。お話しください」

序:「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」
 少年サムエルが祭司エリに教えられて祈った祈りです。それまで士師の時代にはほとんど神のことばが語られていませんでした。主はサムエルに声を掛けられます。そしてイスラエル王国誕生という新しい時代が幕開けします。主は私たち一人ひとりに語りかけてくださいます。この一年もみことばによって力づけられ励ましをいただいて歩んでまいります。
王国を誕生させる役目を果たす預言者サムエル(祭司であり、最後の士師でもある)とは、どのような人物だったのでしょうか。サムエルの人物像を通して、私たちの信仰姿勢をもう一度振り返ります。

 
Ⅰ:捧げられた人(1章)

サムエルは、エフライムの山地に住むエルカナの子として産まれました。エルカナには二人の妻があって、一人はハンナ、もう一人はペニンナでした。ペニンナには子どもがいましたが、ハンナには子どもがいませんでした。ハンナはなかなか子供が授からず、ペニンナからは嫌がらせを受けとてもつらい思いをしていました。
 ハンナと夫は毎年、シロの町に出かけて神様を礼拝する主の宮で捧げものをしていました。ある時、ハンナはこの主の宮で、泣きながら神様に祈っていました。
(10~11)「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。そして誓願を立てて言った。『万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。』」
 主はハンナの祈りに応え、翌年ハンナは男の子を授かります。ハンナはその子をサムエルと名付けました。ハンナの熱心な祈りによってサムエルは生まれ、母ハンナの信仰を受け継いでいきました。幼子が乳離れすると、ハンナはサムエルを主の宮に連れて行き、「神様に約束した通り、この子を神様におささげします」と言って、祭司のエリに預けました。(28)「それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。」サムエルはエリから神さまの教えを学んだり、手伝いをしたりして、神様に仕え、主にも人にも愛され、ますます成長していきました。

 私たちも神様によって贖われ、生かされて、主に捧げられた者です。自分の人生のように思いますが、神様によって与えられた人生であり、私たちの生涯も主に渡されたものです。好き勝手に生きていくのではなく、神様の計画の中にあります。
(エレミヤ29:11)「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
 主はこの年私たちに立てている計画をよく知っています。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与える計画です。主のご計画の中を歩ませていただきましょう。


Ⅱ:神に聞く人(3:1~9)

 サムエルと言うと、私は「祈る少年サムエル」の絵を思い出します。私の家にもその絵が飾ってあります。物心つくころから、この絵は何の絵だろうと思いながら見ていました。サムエルは母の信仰を受け継ぐ祈りの人でした。
この頃、少年サムエルは14、5歳になっていたと思われますが、祭司エリの前で主に仕えていました。「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」とありますように、サムエルが誕生したのは、指導者のいない暗黒の時代でした。そのような時代にサムエルは神から呼びかけられます。彼は生れて初めて神の声を聞きます。

(4~5)「そのとき、主はサムエルを呼ばれた。彼は、『はい。ここにおります。』と言って、エリのところに走って行き、『はい。ここにおります。私をお呼びになったので。』と言った。エリは、『私は呼ばない。帰って、おやすみ。』と言った。それでサムエルは戻って、寝た。」
 サムエルは寝ている時に、自分の名を呼ぶ声を聞きました。そうすると、「はい、ここにおります」と答え、祭司エリが呼んだのだと思い、エリの所に急いで走って行きました。すると、エリは「私は呼ばない。帰ってお休み」とサムエルを帰します。
 サムエルはもう一度、自分の名を呼ぶ声を聞きました。またエリが呼んだと思って行きます。サムエルはエリのもとで主に仕えていましたが、実際に主のことばをそれまで聞いたことがなかったので、主からの呼びかけだとわかりませんでした。
(8~9)「主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、『はい。ここにおります。私をお呼びになったので。』と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。『行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。』サムエルは行って、自分のところで寝た。」
 これで主がサムエルを呼ぶのは三度目です。サムエルはまたエリの所に行きます。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを初めて理解します。そして今度呼ばれたら、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と伝えました。

祈りには二つの祈りがあります。一つは「主よ、お聞きください。しもべは話します。」という祈りです。もう一つはエリが教えたように、「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」という祈りです。
 神社やお寺に行くとお百度参りというのがあります。境内の一定の距離を百度往復して、その度に病気が治るようにとか願い事がかなうようにと祈願します。これはまさに「主よ。お聞きください。しもべは話します。」の祈りです。
 祈りについて、主イエスは山上の垂訓の中で次のように述べています。
(マタイ6:7~8)「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
 父なる神は、私たちがお願いする前から私たちの必要を知っておられます。一生懸命祈らなければ聞いてくれないのではなく、神は私たちの必要をすでに知っていて願いは聞き入れられています。
本来祈りというのは、サムエルの態度「どうぞお話しください。僕は聞いております。」とあるように、神の呼びかけをまず聴くことから始まります。ここに祈りの本質があります。聴くことなしに応答としての祈りはありません。

ある牧師が祈りについて言われました。
「泣きじゃくる子供が母の子守唄によって心が静まっていくように、さまざまな矛盾や、不合理の中で、私たちは悩み、苦しみ、もだえながら、そこで神の語りかけを聞き、望みと力を与えられて生きていくのである。祈りとはまさにこうした激しい世の中で神の使者として生きようと願う者が、耳を傾けて神の語りかけを聞く時である。」
 この一年も、日々、神様の前に静まり、神の御声に耳を傾けます。サムエルに呼びかけたように、私たちにも主は呼びかけてくださいます。日々の生活の中で、主の御声を聞いて、力と望みをいただいて歩んでまいりましょう。
 

Ⅲ:使命を託された人(3:10~21)

(10)「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、『サムエル。サムエル。』と呼ばれた。サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げた。」
 そうしますと、主はサムエルに仰せられました。(11~14節)サムエルにとってはかなり重たいことを告げられました。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物の捧げものによっても、永遠に償うことができないと。ではエリの罪とは何なのか?自分の息子たちが、自らのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪です。
主を知らず、主のことばもまだ示されていなかったサムエルには、突然の主の語りかけは衝撃でした。しかも初めて聞いた主のことばは、師であり養い親であるエリへの裁きだったのです。
(15)「サムエルは朝まで眠り、それから主の宮のとびらをあけた。サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた。」
 翌日、エリはサムエルを呼び、「神様は何をお話になったのか。」と聞きます。「隠さないで教えてくれ」と願うエリに、サムエルは神様のさばきのことばを勇気を持ってしっかりと伝えました。
(18)「それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。『その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。』」
 エリの家に対するさばきのことばは厳しいものでありましたが、サムエルは神のことばを告げ、エリはそれを素直に受け止めました。この経験を通してサムエルは、預言者としての一歩を踏み出すのです。これがサムエルの預言者への召命です。
 私たちもそれぞれ神様に召された者であり、それぞれ自分の使命が与えられています。私たちにもどんなに小さな働きだとしても、その人に与えられた使命があるということです。「地の塩・世の光」としてこの世に遣わされています。
 
ミヒャエル・エンデ作「モモ」より
モモにはたくさんの友だちがいました。そして、友だちの中に、特別な人がいました。その一人は年よりのおじいさんで、道路掃除夫の“ベッポ”といいました。
ベッポは毎日、夜が明けないうちに、キーキー鳴る自転車で、仕事に出かけた。仲間と共に、ほうきと手押し車をもらい、どこの道路を掃除するか、指示を受けます。ベッポは、町がまだ眠っている、夜明け前のこの時間が、好きでした。それに、自分の仕事を気に入っていました。だから、仕事はていねいにやりました。とても大事な仕事だと自覚していたのです。じっくり考えるベッポは、道路掃除もまた、ゆっくりと時間をかけて着実にやりました。ひとあし進んではひと息。ひとあし進んではひと息。
ある日、ベッポは、自分の仕事について、モモに話したことがあります。とても長い道路を受け持つと、これではとてもやりきれないと思ってしまう。だから、せかせかと、スピードを上げてやろうとする。時々目を上げると、まだまだ残っている。ちっとも減ってない。だから、もっとすごい勢いで働こうとする。心配でたまらないから。でも、そうすると、しまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやり方は、いけない。一度に全部のことを考えてはいけない。次の一歩のことだけ、次のひと息のことだけ考える。いつもただ、次のことだけを考える。すると楽しくなってくる。楽しければ、仕事はうまく はかどる。ひょっと気づいた時には、一歩一歩進んできた道路が全部終わっている。どうやってやり遂げたかは、自分でも分からない。ベッポはそんなことを、モモを相手に考え込みながら、時には長い休みを取りながら話した。

 この年の初め、私自身、次のみことばに励まされました。
(マタイ6:34)「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
 みことばがなかなか与えられない時もありますが、今年はすっとこのみことばが心に入ってきました。先のことを考えると、心配が尽きません。明日は明日が心配します。労苦はその日その日に十分あるのですから、その日その日のことを考えて精一杯生きていくのがよいのでしょう。全部のことを考えてしまうと心配ではかどらなくなります。次のこと、次の一歩のことを考えていくように言われているのだと思います。
 神のことばは聞く人に力と勇気を与えてくださいます。サムエルが祈ったように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と、この年も、日々主のみことばに聞き、主にある力と望みをいただいて歩んでまいりましょう。先のことに悩まず、その日その日を喜んで仕えていくことができますように。
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