函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

パリ五輪の「日の丸と君が代」

2024年08月13日 14時21分31秒 | えいこう語る

▼パリ五輪が終わった。歴史と文化とオシャレなパリの街並みに、アスリートも観客も見守れ、我が国の選手たち、さらに外国選手たちの活躍にも、目頭が潤む毎日だった。

▼「オー・シャンゼリゼ」の大合唱で終了したパリ五輪。フランスはオリンピックの背後に潜む「国威発揚」を、さりげなく演出した。さすが花の都パリだ。

▼【五輪への熱狂は何か重要なことを忘れさせる」さらに『変わらぬ国への帰属意識』と、熱狂に対し冷静さを失わない事。重要なのは政治の腐敗への怒り、社会への批判、生活における理不尽に対する抵抗など、五輪の熱狂で、これらが少しずつ麻痺していくことが怖い】と指摘するのは、作家で評論家の古谷経衡だ。(北海道新聞8月13日)。

▼私も今回のパリ五輪は、我が国の選手が国家を背負うという重圧より、個人としての主張が表面に出たという感情を抱いたと、前のブログに書いた。

▼1964年の東京五輪。私は高校1年生だったが、当時は「国威発揚」という言葉を選手ばかりではなく、国民も完全に意識していた。

▼それから考えれば、私の中での今回のパリ五輪は、選手個人を応援したように思える。日本国家を意識するのは、ずいぶん薄れてきている。

▼一人だけに注目すれば、北海道出身の女子やり投げで優勝した、北口榛花だ。単身チェコに渡り、チェコ語も英語も覚えた。

▼日々の練習の激しさを、ものともしない笑顔は、日本人ばかりではなく、様々な国の人々の応援も感じられた。まさしく世界を魅了する選手に育った。

▼金メダリストだけに許される、鐘を鳴らす行為。北口は世界中に響き渡るように、自由奔放に鐘を鳴らした。日本の北口榛花ではなく、世界の北口がそこにいた。

▼だが【日の丸】が掲揚され【君が代】が斉唱されると、北口の存在は、一転‟日本の北口”に引き戻されたように感じた。

▼『日の丸』の掲揚はいい。だが「♪君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで」と国歌が鳴り響くと、私は北口の上に国家が君臨する、そんな気分に引き戻される。

▼そして私の頭の中にも『国家総動員』という言葉が去来する。パリ五輪中にも、我が国は「憲法改正」に向けた動きが活発化している。

▼「熱狂の中の国威発揚」。そんな背後に隠された国家的意志に、常に批判の目を向けるそんな精神も、パリ五輪終了後最も必要な
「国民の自覚」ではないだろうか。

▼古谷は五輪報道に絶叫するアナウンサーに、違和感を持たないことに違和感を持つ。そして「近いうちにまた日本で五輪誘致をという機運が高まれば、それは端的に異様な精神である」と結ぶ。

▼私は「五輪誘致」とは思わないが、国民の期待が薄い『大阪万博』での成功を盛り上げる報道が、過熱することに懸念する。

▼それは『日本維新の会』が、躍進するための手段に利用される、そのようなことにならなければいいと思うからだ。