プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★夫婦の定年って?

2004-08-16 10:57:45 | 日記・エッセイ・コラム
 「夫婦の定年」について、考えたことはありますか。
「馬鹿言ってんじゃないよ!そんなの、偕老同穴。死ぬまでと決まってるだろ!!」と、ひんしゅくを買うかも知れない。考えること自体、不謹慎だと。しかしながら、私は真面目に考えるべきだと思います。

 人間の定年は死であることに異を唱える人はいませんが、同じ人間でも男と女とでは異なります。定年を寿命と捉えるなら、日本人男性は76歳、女性は84歳ほどですから、男女でじつに8年もの差があることになります。さらに結婚年齢は、一般的に男性の方が年上です。もちろん、逆の場合もありますし一概に決めることは慎むべきですが。

 そうなると、夫婦としての生活期間と死別した後の生活設計まで展望しておくことが極めて大切なことになります。

 人間の一生は、誕生から死ぬまでですが、夫婦の一生は歴然として違うのです。どれだけ仲が良い夫婦でも死ぬ時は一人ぼっちです。結婚し、子供が誕生すれば、しつけ教育・就職・結婚で一応親としての義務は果たします。子供が巣立った時、再び夫婦二人だけの生活に戻るのですが、心の支柱ともいうべき子供が居なくなると空虚さを感じます。その後の生活を一番充実させなければいけないのに、大抵は人生に疲れた風情に陥ってしまいます。

 書店には、「老後の生き方」とか「年金で豊かに暮らすには」、或いは、「定年後を豊かに生きる方法」、「定年に備えて」等々、数多くのハウツーものが並んでいます。いずれの本にも共通しているのは、定年=60歳を前提としていることです。最近、65歳定年延長案などと愚かな政策まで出てきています。言うまでも無く、年金財源逼迫の窮余の一策として「定年延長」を実施しようとするものです。無能このうえない政策です。人生は一体何のためにあるのかと問いたくなります。働き続けて死んでいくのではなく、余生を楽しく充実させなくては無意味です。そして、その時間は長いほど、良いはずです。

 ライフステージを展望するとき、男女で定年(=寿命)に差がある以上、夫婦としての定年をベースにしないと惨めな末路を迎える気がしてならないのです。そう考えた時、私は58歳で退職し、時間を超越した生活(勝手に時悠人と称した)を選択しました。


 


★富士山への手紙

2004-08-13 11:29:47 | 日記・エッセイ・コラム
 昭和46年11月10日。JR大船駅から徒歩15分、「風呂無し、トイレ共同」の6畳一間が、私たち夫婦の出発点。勤め先は東京。だが、当時の給料ではとても都心に住めなかった。

 朝早く家を出て、遅く帰宅する生活に、「何のために上京したのだろう?」と、ぼやく私を、なぐさめ力づけてくれたのは、妻の笑顔と富士山だった。冬晴れのある日、アパートのトイレから窓越しに富士山が見えた時の鮮烈な感激は、いまも脳裡に刻み込まれている。身をよじるようにして顔をかたむけ、四角い小さな窓枠から遠くに見た富士山は、切り取った一幅の絵のようだった。「いつか、富士山を近くに見て暮らしたい」と、そのとき心ひそかに誓った。

 一昨年、転勤生活に終止符をうち、生まれ故郷の金沢に戻ったが、加齢とともに冬の寒さが身にこたえるようになって来た。温暖な気候のなかで、残りの人生を心豊かに過ごしたいと願う気持ちが日増しに強くなってくる。「いつか、きっと」の夢が叶いますように。



☆ライン河クルーズ

2004-08-13 11:26:20 | 旅行記
 「あなた、大変よ!これって、私たちが乗った船じゃない?」。
2003年9月28日の昼過ぎ、妻の声に、テレビの画面に目をやった。ライン河で遊覧船が座礁したニュースだった。場所は、ザンクトゴアール近くのローレライで有名な岩付近。10日前、私たちは同じコースを遊覧していた。

  9月18日、リューデスハイムから乗船しザンクトゴアールまで2時間ほどのクルーズに参加した。両岸の断崖に次々と現れる要塞にも似た古城を仰ぎながらのクルーズは、中世の世界に迷い込んだような空間だ。往時の映画のシーンが遺跡とだぶってどんどん膨らんでくる。丸太ん棒のように太い腕をした給仕推薦のハウスワインが、チーズとあってけっこう美味い。ワイン談義とうろ覚えの中世の歴史を二人で思い返しながら貴重で楽しい時間を過ごした。

 しかしながら、異常気象の影響で、ライン河は中州が浮かび上がるほど水量が減少し、大型船の運行に支障が出始めており、目的港のひとつ手前のザンクトゴアール・ハウゼンで下船した。無理をして、浅瀬を航行していたら、座礁事故を起こしていたかもしれない。船長の的確な判断が事故を未然に食い止めたのだ。私の還暦記念旅行は、ローレライの人魚伝説と重なり、いっそうインパクトの強いものになった。

 


◆第11回南条早朝花はすマラソン

2004-08-13 11:12:25 | スポーツ
 2004年7月25日(日)、福井県南条町で開催された「花はす早朝マラソン大会」に参加した。大会名に「早朝」と付くのは、暑い時期だから早朝開始するとの意味で命名したに違いない。だが、午前7時過ぎスタートだから、決して早いとは思わないが、自宅を出発したのは、午前3時半だからまさしく早朝だった。

 南条町の花はすは、生産量全国1位。はす畑を縫うように走るコースは実に素晴らしい。スタートしてまもなく、ピンクの大輪のはす畑が目に飛び込んできた。女房と並走しながら、左右の畑一面に咲き誇るはすに歓声をあげたら、周りのランナーが怪訝そうに振り向いた。地元の人達は、見慣れているのだろうが、数百メートルにわたり、道の両側に紅や白のはすの花を初めて見たら、私でなくても歓声をあげるに違いない。

 折り返し地点(5キロ)が近づいてきた途端、急に女房がスピードダウンした。スタート前に、地元のランナーから「前半はずーっと上りだからセーブするように」と、アドバイスされていたのだが、花はすに見とれていてオーバーペースになったのだ。前半のツケが後半の下りで出てしまい、目標タイムをクリア出来なかった。もっとも、酷暑の中のレースだけに、最初から走りを楽しもうと決めていたので満足した。

 花はす畑の風景も見事だが、沿道の住民の皆さんの応援が何よりもこの暑い気象条件下では心強かった。給水所は10キロの部で4ヶ所。通常、この距離なら、あってもせいぜい1、2ヶ所が常識。暑い時期だからとの配慮だが、それ以上に私設エイドが多いのに驚いた。自宅の冷蔵庫で作った氷を並べる家もあったし、水道のホースにスプリンクラーをつなぎ、にわかホースシャワーを軒先につるした家が沢山目に付いた。濡れるのを嫌って避けるランナーもいたが、私は感謝しながらその下をくぐった。7キロ地点で、農家のお年寄りが手作りのお守りを手渡された時には、立ち止まって二人で最敬礼。ゴール時には、シューズもソックスも水を含んで重かったが、最高の気分だった。

 ローカルの大会は、大口スポンサーが付かず参加者数も見劣りするが、地域住民の温かい心に支えられていることを実感した大会だった。雑誌「ランナーズ」企画で、ランナーが選ぶ「マラソン100選」に、この大会が毎年上位にランキングされている理由が分かったような気がした。
 と同時に、本大会が発足当時、数十名だったものが、11回目を数える今年、2,000名を超えるまでに成長した秘密も何となく理解できた。女房は「暑いレースはもういい!」と言っているが、私は来年またこの感動を味わいに戻ってこようと思っている。


◆2003年ホノルルマラソン

2004-08-13 10:24:50 | スポーツ
2003年12月14日午前5時。号砲一発。花火が打ち上げられ、
25,000人を超えるランナーがゴール目指して走り出した。
 第26回ホノルルマラソンのスタートは、エールが飛び交い、花火をバックに記念写真に収まったりと、いつも変わらぬ楽しい光景だった。私には3回目のホノルルマラソンだったが、周囲のはなやいだ雰囲気とは異なり、一種の感慨に全身が震えていた。

 遡ること1年半前。2002年5月、旅先のブタペストで病気に倒れ入院。3週間後、車椅子で帰国し再入院。秋に手術し、2003年春まで運動禁止の身だった。4月以降、医師の許可がおり、リハビリを兼ねて動き出したが、左右の足の小指は麻痺したまま。両下肢には後遺症状が残り、屈伸運動さえ出来ない状態だった。トレッドミルでウオーキングから始め、徐々に軽めのジョグへとステップアップ。衰えた筋肉も少しずつ回復の兆しが見えてきたが、以前のような体に戻れない焦りから苛立つ日々を送っていた。

 7月7日。60歳の誕生日を迎えた。「還暦記念にホノルルを走ろう!」。決心するのにそう時間は掛からなかったが、主治医が許すはずもなかった。女房も勿論,呆れ顔。「医者には内緒だぞ」と釘をさし、12月に向けてトレーニング計画を練った。目標ができると心の張りもまったく違ってくる。レースまで6ヶ月間しかなかったが、「まだ6ヶ月もある」と自分に言い聞かせた。それでも、毎月通院する身。無理は禁物なので、週3日から4日間、距離は無関係に30分間、1時間とゆっくりジョグに努めた。

 もともと、54歳から走り始めた走歴5年余の遅咲きランナーだ。当初は、5分間走っても息切れし歩き出したものだ。「継続は力なり」とは、言い得て妙で、しだいに距離も延び、フルマラソンを走るまでになったのだ。「としをとっても筋肉は付く」ことを実感した。記録よりも楽しむことを重視しているアベレージランナーだから、とにかく完走を目指せばいいじゃないか。そう考えたら気が楽になり、大会までの時間があっという間に経過した感じだった。

 レースの道中は、予想以上に厳しかった。30キロ地点で恐れていた不安が現実になった。両膝にちぎれるような激痛がはしった。歩道に座りこみ、ストレッチ。痛い足を引きずりながら走りまた立ち止まる。これの繰り返しでゴールを目指す。いったん止めた足はなかなか思うように動いてくれない。最後の難関ダイアモンドヘッドは、歩くのも辛かったが、登りきったら残り2キロは下り。最後の気力をふりしぼりゴールイン。
 だが、いつもゴール時に味わう充実感は無かった。目標タイム5時間30分を8分ほど上回ったことではなく、途中、歩いたことが喜びを半減させたのだ。過去、10数回のフルマラソンで、どんなに遅くても、最後まで歩を止めないように心がけて来ただけに、完走出来なかったことが悔しかった。新たな挑戦が続く。