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時悠人chosan流処世術

●マスコミの報道責任

2005-08-14 15:21:18 | 日記・エッセイ・コラム
 9月11日の総選挙に向けて、情報戦が拍車をかけ始めた。テレビの日曜特番にも政治家や評論家が顔をそろえ、今回の選挙が持つ重要性を説いていた。それはそれで結構なことだが、話を聞くうちに何か根本のところが違っているような違和感におそわれた。この不可解な解散劇と選挙を通じて、我々有権者が一番注意すべきなのは、マスコミ報道の威力であり、興味本位の扇動に躍らせられないことだと思う。

 たとえば、「造反議員」のレッテルを貼ったのは誰なのか?国民ではない。政府でもない。野党はもともと反対なのだがから、造反ではない。そう、これは単なる自民党内部の対立抗争でしかないのだ。マスコミが流行語大賞を狙ってネーミングしたかどうかは知らぬが、解散後の自民党執行部の動きを考えれば、自民党自身の考え方であることは確かだ。「造反」といっても、彼らは除名されておらず今もなお自民党籍をもつままだ。政府提出の郵政法案には反対だったが、修正すれば賛成する意思を持っていたり、自民党の他の政策を指示する人が大半だ。「民営化は賛成だが、もっと審議を尽くすべき」、或いは、「郵政公社になって4年内に経営形態を再度見直すと決めたのに、何故、2年で結論を出す必要があるのか?」といった「党運営上の不満」に依拠している。

 党議拘束がかかっているとか、無効だとの議論には興味がないが、「国会で否決されれば小泉内閣への不信任だ」と公言した首相が、不信任の責任を転嫁した行為は断じて許してはいけない。なぜなら、不信任の責任の採り方は、内閣総辞職だからだ。

 議会制民主主義を採る日本においては、国民の代表者である国会議員が国民の総意として審議を尽くし政策を決定することは誰もが知っている。その国民の代表者が否決したものを、「そんな筈はない。国民は賛成している。直接、聞いてみたい」といって、内閣総理大臣は解散・総選挙を決断した。これは民主主義の根本理念を否定する以外の何物でもない。しかも、山積する諸課題を棚上げし、郵政民営化を論点に据えようとしている姿勢に、この国の末期的な危機感を感じてならない。

 ビジョン不在の構造改革の末路ともいえるが、「私の在任中は消費税を上げない」と逃げをうった総理が、万が一、再選されたら、また同じように次期内閣に委ねようとするのだろうか?国家財政が逼迫しているからという理由で、年金の掛け金や給付率を見直したり、医療費の自己負担をあげたのではなかったのか。サラリーマン増税を含め、国民は痛みに耐え続けているのに、構造改革の成果はいつになったら出るのだろうか。マスコミ各社は、9月11日の選挙までに、先ず、小泉内閣発足後の業績・成果の総点検を行ってもらいたいと強く願っている。


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