電脳筆写『 心超臨界 』

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( セネカ )

真珠湾攻撃の真実 《 米政府は日本に十分な石油補給品の入手を許した――ロバート・B・スティネット 》

2024-04-08 | 04-歴史・文化・社会
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アメリカ石油の補給が禁止されていると考えられていた1940年7月から41年4月にかけて、約920万バレルの石油が日本向けに輸出認可された。1941年4月下旬、追加石油2百万バレルの輸出が交渉中であった。1940年10月から41年12月にかけて、日本のタンカーは常に米海軍電子装置の監視下におかれていた。米政府はピッタリと日本タンカーを追跡していた。


◆米政府は日本が競争能力を維持するのに十分な石油補給品の入手を許した

『真珠湾の真実』
( ロバート・B・スティネット、文藝春秋(2001/6/26)、p42 )

1940年の真夏、ルーズベルトは3期目の大統領選挙のことを考えながら、ある輸出許可認証計画を実施した。それはまだマッカラム提案が採用される前であったが、日本が米国の石油製品とくず鉄を利用できなくなると思われる計画であった。サンフランシスコのコール・ブレティン紙にサンフランシスコの岸壁で1940年の7月と10月に、日本船の建川丸(たてかわまる)とぼるどう丸に港湾労働者がくず鉄を積み込んでいる写真が掲載された。これはルーズベルトの禁輸政策に明らかに反する行為であった。何トンものくず鉄をつんだ両船は金門橋をくぐり抜けて日本に向かった。

石油輸出許可制もまたごまかしで、米国西岸の石油精製所には適用されなかった。ホワイトハウスは本質的には、日本が競争能力を維持するのに十分な石油補給品の入手を許した。サンフランシスコの日本領事館は、ルーズベルト政権は輸出禁止を施行していないと、本国政府に保証した。つまり、石油とガソリンの補給品は入手可能だった。「われわれ日本サイドの輸出はすべて承認された。石油を買い入れている、これら在米代理店はワシントンに出掛けて、アメリカ政府当局と適切な取り決めをやっている」

サンフランシスコの日本総領事は「特別ブレンドの原油」を購入し、容易にルーズベルトの禁輸措置をのがれたと書いていた。それから総領事はアソシエイティッド石油会社から4万4千トン[32万1千バレル]以上の石油を購入した。彼は秘密電報の終わりで、日本の軍事指導者たちに、つぎのとおり述べていた。「三井と三菱に石油を売っているサンフランシスコ地域のアメリカの石油ディーラーたち――この中で主たるディーラーはアソシエイティッド石油会社――は、通常のガソリンの日本輸出を続けることは困難ではないだろうと感じている」

この日本総領事の「困難ではない」と書きこまれた電報は、1940年9月16日、ルーズベルトに届けられた。だが、ホワイトハウスでは誰も石油の禁輸措置を強化しなかった。そのため、日本への石油輸出には安全信号がついた。日本の石油とガソリン輸送用タンカーは、アメリカ政府の暗黙の承認のもとに、太平洋岸の港で石油精製品を積み込んで、せっせと太平洋を往復した。米海軍の無線方位測定所はワシントンからの命令により、本州西端の周防灘に位置する、徳山の日本海軍燃料貯蔵施設に向かっているタンカーを追跡した。

アメリカ石油の補給が禁止されていると考えられていた1940年7月から41年4月にかけて、約920万バレルの石油が日本向けに輸出認可された。1941年4月下旬、追加石油2百万バレルの輸出が交渉中であった。1940年10月から41年12月にかけて、日本のタンカーは常に米海軍電子装置の監視下におかれていた。米政府はピッタリと日本タンカーを追跡していた。

タンカーによる、日本への石油輸送は、シアトル近くの監視局SAILが監視を続けていた。SAILは米本土西岸の海軍通信諜報ネットワーク(WCCI)の管制センターであった[SAILとはSEATTLEのSを意味する海軍特有の表音記号である]。マッケイ・ラジオ・テレグラフ、パン・アメリカン航空、RCAコミュニケーションズ、グローブ・ワイヤレスの商業無線電信施設が監視に必要な情報を提供した。これら膨大な監視網は、南はカリフォルニアのインペリアル・ビーチから北はアラスカのダッチハーバーまで広がっていた。タンカーの動きを監視し、日本が世界中の海から商船を引きあげる気配はないかを見張り、各船舶の無線発信機の特徴を識別することにより、この船舶監視網はホワイトハウスに重要な情報を提供した。

SAILと西海岸監視網の暗号解読員たちは、1940年10月から12月6日まで、日本のタンカー8隻が航行した太平洋航路を追跡した無線方位測定に基づき、追跡チャート1を作成した。この追跡チャートから、米海軍当局は、日本が入手した石油のほとんどはカリフォルニア州ポート・コスタにあるアソシエイティッド石油会社の製油所で購入し、艦艇用の主要燃料貯蔵庫がある徳山へ、直接輸送されていることを知った。ルーズベルト大統領は例の日本総領事の(石油入手は)「困難ではない」という報告電報を傍受したことから、日本が自分の決めた石油輸出禁止をのがれていることを確認した。

海軍の傍受電信員たちは、難なくタンカーを追跡した。日本のタンカーは太平洋を往復する間、熱心に無線発信機を使用して、彼らの位置を米海軍の無線方位測定係りに提供した。サンフランシスコの海軍情報部は日本の全タンカーを、その呼出符号から識別することができた。2隻のタンカー、極東丸と給油艦・尻矢(しりや)とは、のちに真珠湾攻撃部隊に含まれることになる。これら2隻は1940年から41年にかけてサンフランシスコ湾に入港し、アメリカ石油を積んで帰国し、徳山燃料廠のタンクを満杯にした。1年後、極東丸が、真珠湾攻撃部隊に燃料補給する8隻のタンカーからなる補給隊の旗艦となった時、極東丸の無線通信はすぐに識別された。「丸」とは日本語で「円」を意味する言葉である。軍艦には「丸」はつかないが、商船には船名の末尾にこの字がつけ加えられる。それは商船が遠い外洋で危険に遭遇したとき、その船が喜びに満ちて母港に帰って円(丸)い航跡を描くことができるようにとの信仰からである。1940年と41年に極東丸はアメリカと日本の港との間に何回も円を描くことになる。
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