電脳筆写『 心超臨界 』

限界も恐怖と同じでしばしば幻想なのである
( マイケル・ジョーダン )

自分のための人生 《 “心のガン細胞”を撃退する法――ウエイン・W・ダイアー 》

2024-09-11 | 03-自己・信念・努力
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
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■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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この内気の悪循環は、自分を萎縮させてしまうような「私は……である」のほとんど全部に当てはまる。自分自身の内部にある、こういった神経症的な悪循環に目を向けてみよう。そして、自分はこの先、変わる余地のない完成品だと思っているような分野があれば、挑戦してみることだ。過去に執着し、「私は……である」に頼ることで手にする第一の報酬は、変化を回避するという行為である。


◆“心のガン細胞”を撃退する法

『自分のための人生』〈原題:Your Erroneous Zone(錯信帯)〉
( ウエイン・W・ダイアー/渡部昇一・訳、三笠書房 (2011/7/21)、p135 )

  過去の人生を頼りに自分と言う人間を語り、過去の世界をさまよう
  のは幽霊だけである。生きている自分は、今現在の存在であって、
  過去の存在ではない。

4章 「きのうの自分」を超える
4 “心のガン細胞”を撃退する法

「私は……である」を持ち出して過去にしがみついたおかげで手にする報酬は、一言で言えば「回避」である。ある種の活動から巧みに逃れたり、性格上の欠点をごまかしたいと思うとき、決まって「私は……である」で自分を正当化する。

事実、このようなレッテルばかりを貼っていると、自分でもレッテルどおりだと信じるようになる。その時点で自分は完成品、つまり何もかも終わってしまった人間となり、その後の人生をそのときの自分のままで送るものと決めてしまうのである。

レッテルのおかげで、自分を変える辛さや危険を味わわずにすむ。そのレッテルのもとになった態度が、レッテルのおかげでそのまま固まってしまうわけである。

たとえば、ある若者が自分は内気だと思い込んだままパーティに出かけるとする。その若者は内気な人間のようにふるまい、そのふるまいがさらに自分のイメージを裏付けることになる。まさに悪循環である。

図1を見ればわかるように、この環の3と4の間で、行動に移らないで「私は……である」ということで自分の行為を無にしてしまったのである。さらに、この環から抜け出すのにぜひとも必要とされる冒険も、うまく回避してしまったのだ。

  図1
    → なぜなら
   ↑    ↓
   ↑ 1 私は内気だ
   ↑    ↓
   ↑ 2 あの魅力的な人たちを見ろ
   ↑    ↓
   ↑ 3 よし、近づきになろう
   ↑    ↓
   ↑ 4 いや、それはできない
   ↑    ↓
   ↑ 5 なぜできないのか
   ↑    ↓
    ←←←

この若者が内気なのには多くの理由があるだろうが、その中には子供のころの体験にまでさかのぼるものもあるだろう。不安の原因が何であれ、社会に対する警戒心を何とかする代わりに、簡単に「私は……である」で説明してしまったわけである。失敗を恐れるあまり、試してみようとさえしないのだ。

この内気の悪循環は、自分を萎縮させてしまうような「私は……である」のほとんど全部に当てはまる。

自分自身の内部にある、こういった神経症的な悪循環に目を向けてみよう。そして、自分はこの先、変わる余地のない完成品だと思っているような分野があれば、挑戦してみることだ。過去に執着し、「私は……である」に頼ることで手にする第一の報酬は、変化を回避するという行為である。

確かに、自分が変わるよりは自分はこうだとレッテルを貼るほうが簡単である。もしかしたら、自分のレッテルの根拠を両親、先生、近所の人、祖父母などのせいにするかもしれない。

そういう人たちに、「私は……である」の責任を負わせてしまうと、自分の現在の生活をコントロールする基準を彼らに与え、彼らを自分よりも高い位置にもちあげることになるし、また、自分がどうしようもない状態にとどまっている事実に対し、巧みにアリバイをこしらえたことになる。

さらに言えば、それは冒険的な行為を認めないという保証までしてくれるのだ。もし、自分がこのようなレッテルを用いるのは「文化」の落度だとするならば、自分にはほどこしようがないわけである。
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