電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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行雲流水は、また無常の相(すがた)でもある。しかし、自然のたたずまいだけに無常を感じるだけでは不十分である。自分自身の無常を観じるよすがとして、行雲流水を凝視しなければならない。類語に「白雲、自(おの)ずから去来す(白雲自去来)」がある。
◆行雲流水(こううんりゅうすい)
『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p74 )
「行く雲のごとく、流れる水のように」一ヵ所に停住することなく、放浪漂泊の旅をつづける意味だけではない。行く雲のごとく何ものにもとらわれずに無心に、また流るる水にも似て、決まった型にこだわることなき自由を体得するをいう。
しかも、雲は、ときには峰に止まって山の風光を添え、添えたことも忘れて、いずこかに去って行く。水も、特定の型にはなじまぬが、必要があれば方円の器にしたがい、その場に充実して生きる。このように、無心無相にその時その所を生き、その時その所を生かしていく生き方が「行雲流水」である。
行雲流水は、また無常の相(すがた)でもある。しかし、自然のたたずまいだけに無常を感じるだけでは不十分である。自分自身の無常を観じるよすがとして、行雲流水を凝視しなければならない。類語に「白雲、自(おの)ずから去来す(白雲自去来)」がある。
九条武子さん(1928年没)に「大空をしずかに雲は流れゆく しずかにわれも生くべかりけり」の詠草がある。「行雲流水」と「白雲自去来」の二つの意味をふまえて詠まれたような一首であろう。
私がはじめて「雲水」の行脚(あんぎゃ)に出るとき、私を得度してくれた松島瑞巌寺(ずいがんじ)の盤竜老師が送別に次の詩を書いて記念に下された。
行け行け 潭北(たんほく)また湖南(こなん)
処々(しょしょ)の風光は探(さぐ)るに一任す
堅固法身(けんごほつしん)正眼(しょうげん)を開かば
花は鏡に似て 水は藍の如し
どこへでも縁に流れて旅をつづけるがよい。そして、各地の風光を自由に味わうがよかろう。心の眼さえ開けるなら、花も水もすべて真如を語っているのがわかるであろう――と。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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行雲流水は、また無常の相(すがた)でもある。しかし、自然のたたずまいだけに無常を感じるだけでは不十分である。自分自身の無常を観じるよすがとして、行雲流水を凝視しなければならない。類語に「白雲、自(おの)ずから去来す(白雲自去来)」がある。
◆行雲流水(こううんりゅうすい)
『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p74 )
「行く雲のごとく、流れる水のように」一ヵ所に停住することなく、放浪漂泊の旅をつづける意味だけではない。行く雲のごとく何ものにもとらわれずに無心に、また流るる水にも似て、決まった型にこだわることなき自由を体得するをいう。
しかも、雲は、ときには峰に止まって山の風光を添え、添えたことも忘れて、いずこかに去って行く。水も、特定の型にはなじまぬが、必要があれば方円の器にしたがい、その場に充実して生きる。このように、無心無相にその時その所を生き、その時その所を生かしていく生き方が「行雲流水」である。
行雲流水は、また無常の相(すがた)でもある。しかし、自然のたたずまいだけに無常を感じるだけでは不十分である。自分自身の無常を観じるよすがとして、行雲流水を凝視しなければならない。類語に「白雲、自(おの)ずから去来す(白雲自去来)」がある。
九条武子さん(1928年没)に「大空をしずかに雲は流れゆく しずかにわれも生くべかりけり」の詠草がある。「行雲流水」と「白雲自去来」の二つの意味をふまえて詠まれたような一首であろう。
私がはじめて「雲水」の行脚(あんぎゃ)に出るとき、私を得度してくれた松島瑞巌寺(ずいがんじ)の盤竜老師が送別に次の詩を書いて記念に下された。
行け行け 潭北(たんほく)また湖南(こなん)
処々(しょしょ)の風光は探(さぐ)るに一任す
堅固法身(けんごほつしん)正眼(しょうげん)を開かば
花は鏡に似て 水は藍の如し
どこへでも縁に流れて旅をつづけるがよい。そして、各地の風光を自由に味わうがよかろう。心の眼さえ開けるなら、花も水もすべて真如を語っているのがわかるであろう――と。