トップページ → ★仏様の指
神の意志は人をただ幸せにすることではなく
人が自ら幸せをつかむところにある
( カント )
It is not God's will merely that we should be happy,
but that we should make ourselves happy.
( Immanuel Kant, German philosopher, 1724-1804 )
◆我事において後悔せず
『法華経を生きる』
( 石原慎太郎、幻冬舎 (2000/8/1) )
宮本武蔵は一乗下り松での何十人という吉岡門下を相手の決闘に出かける前、途中の神社に立ち寄って勝利を願って祈ろうとしかけ、「神仏を崇(あが)めても、神仏に頼らず」と翻然と覚って踵を返し敵地に赴いたそうだが、その心は神に頼った瞬間心に緩みが出来てしまい、完全に自らの力を発揮出来ずに終わりかねないと恐れたからでしょう。
その後の彼は思い切った作戦を立て、その仇討ちの果たし合いに、相手の総大将として一番奥の床机に座っていた吉岡清十郎の幼い嫡男に向ってまっしぐらに突き進み、これを切り殺してしまう。そしてそれを見て動揺する相手を次々に全員切り倒す。有名な二刀流は、この多勢に無勢の戦いの中で自然に編み出されたともいう。
余談だが武蔵はこの奇蹟の勝利の後、敵の大将とはいえまだいたいけない子供を真っ先に切ったとして世間から咎められもしたが、しかしその作戦なくしては、たぶんよってたかって切り刻まれていたに違いない。まだ前髪を立てた子供とはいえ戦いの将は将ではないかという武蔵の言い分はやがて認められ、たった一人に門下総勢してかかった、それも子供を前に押し出してきた吉岡道場はやがて逆に非難されるようになり、武蔵の名声は世に轟くことにもなる。
その結果を見れば、武蔵が神社に詣でたあの瞬間に、神を崇めても神には頼るまいと決めたことが彼の剣豪としての人生を開いたということなのだろうが、しかし、ならば彼にその一瞬の覚りをもたらしたものは何なのかということです。
詭弁に聞こえるかも知れないが、彼にその覚りを与えたものこそが実は神だったのかもしれない。神は時として、人間に神を意志的に捨てることをも促すことさえある、ということを後々法華経の説く方法論について記す段で説明します。
◆仏様の指
『教えることの復権』
( 大村はま/苅谷剛彦・夏子、ちくま新書 )
大村先生の『教えるということ』の中に仏様の指の話がありますね。奥田正造先生(当時、成蹊女学校主事)に伺ったお話として。それをちょっと引用してみます。
「仏様がある時、道ばたに立っていらしゃると、一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車は、そのぬかるみにはまってしまって、男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても、どうしても車は抜けない。その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらっしゃいましたが、ちょっと指でその車におふれになった、その瞬間、車はすっとぬかるみから抜けて、からからと男は引いていってしまった」とこういう話です。
「こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、その車を引いていったのだ」こういうふうにおっしゃいました。
◆他力の声
『人間の覚悟』
( 五木寛之、新潮社 (2008/11)、p120 )
伝説のように語られるエピソードですが、宮本武蔵は、名だたる剣客(けんきゃく)ぞろいの吉岡一門と果(はた)し合いに向かう途中、ある神社の前でふと立ち止まり武運を祈ろうとしたという。
しかし、神殿に一礼して手を合わせようとした瞬間、武蔵は「やはり自分の剣を信じ、自力で勝たなければならない。神に頼むようでは負けだ」と思い返し、決然と拝むのをやめ、そのまま果し合いの場に向かって、決闘に勝利したといいます。
これについてある人は、「武蔵は神仏に頼ってなどいたのでは剣の道は極(きわ)められないと覚悟して、祈るのをやめた。だから自力を信じて勝ったのだ。やはり自力が大切である」と言っていましたが、私はそうは思いません。
そうではなくて、そこで武蔵の頭にひらめいた「神仏を頼まず自分の剣を信じて戦え」という声なき声こそが、他力(たりき)の声であると思います。神仏に頼んで決闘に勝とうと考えるのではなく、お前、頑張って全力を尽(つ)くせという声こそが他力の声なのではないでしょうか。
最近はあまり耳にしなくなりましたが、「人事を尽くして天命(てんめい)を待つ」という言葉があります。私はこれを、人事を尽くさんとするはこれ天の命なり、と勝手に読みかえています。つまり、自分は絶対に今これをやるのだと心を決めて思いたったとすれば、それは天から下った命なのだと考えます。
神の意志は人をただ幸せにすることではなく
人が自ら幸せをつかむところにある
( カント )
It is not God's will merely that we should be happy,
but that we should make ourselves happy.
( Immanuel Kant, German philosopher, 1724-1804 )
◆我事において後悔せず
『法華経を生きる』
( 石原慎太郎、幻冬舎 (2000/8/1) )
宮本武蔵は一乗下り松での何十人という吉岡門下を相手の決闘に出かける前、途中の神社に立ち寄って勝利を願って祈ろうとしかけ、「神仏を崇(あが)めても、神仏に頼らず」と翻然と覚って踵を返し敵地に赴いたそうだが、その心は神に頼った瞬間心に緩みが出来てしまい、完全に自らの力を発揮出来ずに終わりかねないと恐れたからでしょう。
その後の彼は思い切った作戦を立て、その仇討ちの果たし合いに、相手の総大将として一番奥の床机に座っていた吉岡清十郎の幼い嫡男に向ってまっしぐらに突き進み、これを切り殺してしまう。そしてそれを見て動揺する相手を次々に全員切り倒す。有名な二刀流は、この多勢に無勢の戦いの中で自然に編み出されたともいう。
余談だが武蔵はこの奇蹟の勝利の後、敵の大将とはいえまだいたいけない子供を真っ先に切ったとして世間から咎められもしたが、しかしその作戦なくしては、たぶんよってたかって切り刻まれていたに違いない。まだ前髪を立てた子供とはいえ戦いの将は将ではないかという武蔵の言い分はやがて認められ、たった一人に門下総勢してかかった、それも子供を前に押し出してきた吉岡道場はやがて逆に非難されるようになり、武蔵の名声は世に轟くことにもなる。
その結果を見れば、武蔵が神社に詣でたあの瞬間に、神を崇めても神には頼るまいと決めたことが彼の剣豪としての人生を開いたということなのだろうが、しかし、ならば彼にその一瞬の覚りをもたらしたものは何なのかということです。
詭弁に聞こえるかも知れないが、彼にその覚りを与えたものこそが実は神だったのかもしれない。神は時として、人間に神を意志的に捨てることをも促すことさえある、ということを後々法華経の説く方法論について記す段で説明します。
◆仏様の指
『教えることの復権』
( 大村はま/苅谷剛彦・夏子、ちくま新書 )
大村先生の『教えるということ』の中に仏様の指の話がありますね。奥田正造先生(当時、成蹊女学校主事)に伺ったお話として。それをちょっと引用してみます。
「仏様がある時、道ばたに立っていらしゃると、一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車は、そのぬかるみにはまってしまって、男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても、どうしても車は抜けない。その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらっしゃいましたが、ちょっと指でその車におふれになった、その瞬間、車はすっとぬかるみから抜けて、からからと男は引いていってしまった」とこういう話です。
「こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、その車を引いていったのだ」こういうふうにおっしゃいました。
◆他力の声
『人間の覚悟』
( 五木寛之、新潮社 (2008/11)、p120 )
伝説のように語られるエピソードですが、宮本武蔵は、名だたる剣客(けんきゃく)ぞろいの吉岡一門と果(はた)し合いに向かう途中、ある神社の前でふと立ち止まり武運を祈ろうとしたという。
しかし、神殿に一礼して手を合わせようとした瞬間、武蔵は「やはり自分の剣を信じ、自力で勝たなければならない。神に頼むようでは負けだ」と思い返し、決然と拝むのをやめ、そのまま果し合いの場に向かって、決闘に勝利したといいます。
これについてある人は、「武蔵は神仏に頼ってなどいたのでは剣の道は極(きわ)められないと覚悟して、祈るのをやめた。だから自力を信じて勝ったのだ。やはり自力が大切である」と言っていましたが、私はそうは思いません。
そうではなくて、そこで武蔵の頭にひらめいた「神仏を頼まず自分の剣を信じて戦え」という声なき声こそが、他力(たりき)の声であると思います。神仏に頼んで決闘に勝とうと考えるのではなく、お前、頑張って全力を尽(つ)くせという声こそが他力の声なのではないでしょうか。
最近はあまり耳にしなくなりましたが、「人事を尽くして天命(てんめい)を待つ」という言葉があります。私はこれを、人事を尽くさんとするはこれ天の命なり、と勝手に読みかえています。つまり、自分は絶対に今これをやるのだと心を決めて思いたったとすれば、それは天から下った命なのだと考えます。





