電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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日本は正当な条約に基づいて上海に部隊を駐留させていたのです。居留地では平和的に商売を営む日本人が大勢いました。そんな日本人に対して中国側から一方的に軍事行動を仕かけてきたのですから、相手の「侵略」以外のなにものでもありません。それが第2次上海事件であり、支那事変のはじまりでした。
◆支那事変のはじまりは第2次上海事変だ
『国難の日本史』
( 藤岡信勝、ビジネス社 (2015/4/30)、p228 )
「支那事変のはじまりは盧溝橋事件である」と、ほとんどの教科書に書かれておりますが、これは事の本質を覆い隠すものだというべきです。なぜなら、盧溝橋事件はすでにお話したように現地停戦協定でいったん収まっていたからです。その後も中国側からの挑発が続き、やむなく日本側も局地的な軍事行動に出たものの、それが本格的な戦闘に発展することはありませんでした。まして、わが国は「通州事件」があったあとでさえ、href="https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/8a0c19860998abf330bc214a510ee4b4" target="_blank">「船津工作」のようなかたちで和平を追求していたのです。
その意味では、盧溝橋事件というのはほんとうに局地的なトラブルであり、これを「支那事変のはじまり」と位置づけるのは誤りだというべきです。
では、支那事変の真のはじまりはいつ、どこか、といえば、それは「1937年8月13日の上海である」なのです。この日、国民党軍5万の精鋭部隊が突如、日本人居留民のいる租界(そかい)に襲いかかったのです。
当時の日本は、華北の居留民は陸軍が守り、華中および華南は海軍がその任に当たるという地域的な役割分担をしていました。したがって、上海を守備するのは海軍陸戦隊ということになりますが、その数はわずかに2千2百でした。そこへ5万の国民党軍が攻撃を仕かけてきたわけですから、応戦したものの苦戦は免れませんでした。
この攻撃作戦の中心人物は張治中(ちょうじちゅう)という将軍でした。彼は先制攻撃の提唱者で、上海攻略のために前々から戦闘準備をしていました。
『ワイルド・スワン』(講談社文庫)で有名になったユン・チアンは、夫ジョン・ハリデイとの共著『マオ―誰も知らなかった毛沢東』(講談社)という本のなかで、張治中が蒋介石に次ぐ国民党の大幹部でありながら、じつはスターリンのスパイであったという事実を暴露しています。そして、この上海事変も張治中が蒋介石のいうことを聞かずにはじめたものだと書いています。
8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕
組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の中
尉と一等兵を射殺したのである(前述の大山中尉事件)。さらに、
一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射
殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。日
本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張治中は攻
撃許可を求めて蒋介石を攻めたてた。蒋介石はこれを却下し、13日
朝、張治中に対して、「一時の衝動に駆られて」戦争の口火を切っ
てはならない、いま一度あらゆる局面を「検討」したうえで計画を
提出するように、と命じた。翌日、張治中は、「本軍は本日午後5
時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次のとおり
……」と、蒋介石に迫った。
日時が1日ズレていること、それに蒋介石自身、兵を十年養って日本と戦う意思は十分もっていたわけですから、張治中が「蒋介石のいうことを聞かずに」というのはあたらないのではないでしょうか。
ただし、張治中が中国共産党のスパイであったことはまったくの事実です。というのも、戦後の1949年、国共内戦(国民党と共産党の内戦)が決着したとき、張治中は国民党側の代表として交渉に参加しながら、共産党側に寝返っているからです。国民党のなかには共産党員が大勢もぐり込んでいて、コミンテルンの指令を実行していたというのが当時の実態でした。
しかも第2次上海事変が勃発したとき、国民党は外国人記者に向かって「日本軍が攻撃をしかけてきた」というデマを発表しました。ところが外国の新聞記者たちはこの発表には騙されませんでした。一連の流れをみていて、「デマだ」ということにはっきり気づいていたからです。
そもそも、侵略ということの意味を考えてみましょう。「侵略」は英語で“aggression”といいます。そしてこの“aggression”は“unprovoked attack”を意味します。いうまでもなく“attack”とは「攻撃」のことであり、“provoke”というのは「挑発する」という意味です。
すると、“unprovoked attack”というのは頭に“un”がついていますから、「挑発されないのに攻撃する」、すなわち“aggression”=「侵略」ということになります。
それに対して、挑発されて――たとえば、相手が刃物を突きつけてきたので危険を感じて反撃した場合、頭に“un”のつかない“provoked attack”になります。相手から挑発されたので反撃したわけですから、これはまったく「侵略」には当たりません。
日露戦争は1904年2月、旅順港のロシア艦隊に対する日本の駆逐艦による奇襲攻撃(旅順港攻撃)ではじまっています。あれも、ロシア側の露骨な南下政策によって“provoke”=「挑発」されたことが原因ですから、正当性があります。
ところが、“provoke”されていないのに“attack”したら、これは明らかに「侵略」になります。
……ということで、第2次上海事変を考えてみると、国民党軍は8月13日、いきなり攻撃を仕かけてきたわけですから、まさに「侵略」です。
日本は正当な条約に基づいて上海に部隊を駐留させていたのです。居留地では平和的に商売を営む日本人が大勢いました。そんな日本人に対して中国側から一方的に軍事行動を仕かけてきたのですから、相手の「侵略」以外のなにものでもありません。それが第2次上海事件であり、支那事変のはじまりでした。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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日本は正当な条約に基づいて上海に部隊を駐留させていたのです。居留地では平和的に商売を営む日本人が大勢いました。そんな日本人に対して中国側から一方的に軍事行動を仕かけてきたのですから、相手の「侵略」以外のなにものでもありません。それが第2次上海事件であり、支那事変のはじまりでした。
◆支那事変のはじまりは第2次上海事変だ
『国難の日本史』
( 藤岡信勝、ビジネス社 (2015/4/30)、p228 )
「支那事変のはじまりは盧溝橋事件である」と、ほとんどの教科書に書かれておりますが、これは事の本質を覆い隠すものだというべきです。なぜなら、盧溝橋事件はすでにお話したように現地停戦協定でいったん収まっていたからです。その後も中国側からの挑発が続き、やむなく日本側も局地的な軍事行動に出たものの、それが本格的な戦闘に発展することはありませんでした。まして、わが国は「通州事件」があったあとでさえ、href="https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/8a0c19860998abf330bc214a510ee4b4" target="_blank">「船津工作」のようなかたちで和平を追求していたのです。
その意味では、盧溝橋事件というのはほんとうに局地的なトラブルであり、これを「支那事変のはじまり」と位置づけるのは誤りだというべきです。
では、支那事変の真のはじまりはいつ、どこか、といえば、それは「1937年8月13日の上海である」なのです。この日、国民党軍5万の精鋭部隊が突如、日本人居留民のいる租界(そかい)に襲いかかったのです。
当時の日本は、華北の居留民は陸軍が守り、華中および華南は海軍がその任に当たるという地域的な役割分担をしていました。したがって、上海を守備するのは海軍陸戦隊ということになりますが、その数はわずかに2千2百でした。そこへ5万の国民党軍が攻撃を仕かけてきたわけですから、応戦したものの苦戦は免れませんでした。
この攻撃作戦の中心人物は張治中(ちょうじちゅう)という将軍でした。彼は先制攻撃の提唱者で、上海攻略のために前々から戦闘準備をしていました。
『ワイルド・スワン』(講談社文庫)で有名になったユン・チアンは、夫ジョン・ハリデイとの共著『マオ―誰も知らなかった毛沢東』(講談社)という本のなかで、張治中が蒋介石に次ぐ国民党の大幹部でありながら、じつはスターリンのスパイであったという事実を暴露しています。そして、この上海事変も張治中が蒋介石のいうことを聞かずにはじめたものだと書いています。
8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕
組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の中
尉と一等兵を射殺したのである(前述の大山中尉事件)。さらに、
一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射
殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。日
本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張治中は攻
撃許可を求めて蒋介石を攻めたてた。蒋介石はこれを却下し、13日
朝、張治中に対して、「一時の衝動に駆られて」戦争の口火を切っ
てはならない、いま一度あらゆる局面を「検討」したうえで計画を
提出するように、と命じた。翌日、張治中は、「本軍は本日午後5
時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次のとおり
……」と、蒋介石に迫った。
日時が1日ズレていること、それに蒋介石自身、兵を十年養って日本と戦う意思は十分もっていたわけですから、張治中が「蒋介石のいうことを聞かずに」というのはあたらないのではないでしょうか。
ただし、張治中が中国共産党のスパイであったことはまったくの事実です。というのも、戦後の1949年、国共内戦(国民党と共産党の内戦)が決着したとき、張治中は国民党側の代表として交渉に参加しながら、共産党側に寝返っているからです。国民党のなかには共産党員が大勢もぐり込んでいて、コミンテルンの指令を実行していたというのが当時の実態でした。
しかも第2次上海事変が勃発したとき、国民党は外国人記者に向かって「日本軍が攻撃をしかけてきた」というデマを発表しました。ところが外国の新聞記者たちはこの発表には騙されませんでした。一連の流れをみていて、「デマだ」ということにはっきり気づいていたからです。
そもそも、侵略ということの意味を考えてみましょう。「侵略」は英語で“aggression”といいます。そしてこの“aggression”は“unprovoked attack”を意味します。いうまでもなく“attack”とは「攻撃」のことであり、“provoke”というのは「挑発する」という意味です。
すると、“unprovoked attack”というのは頭に“un”がついていますから、「挑発されないのに攻撃する」、すなわち“aggression”=「侵略」ということになります。
それに対して、挑発されて――たとえば、相手が刃物を突きつけてきたので危険を感じて反撃した場合、頭に“un”のつかない“provoked attack”になります。相手から挑発されたので反撃したわけですから、これはまったく「侵略」には当たりません。
日露戦争は1904年2月、旅順港のロシア艦隊に対する日本の駆逐艦による奇襲攻撃(旅順港攻撃)ではじまっています。あれも、ロシア側の露骨な南下政策によって“provoke”=「挑発」されたことが原因ですから、正当性があります。
ところが、“provoke”されていないのに“attack”したら、これは明らかに「侵略」になります。
……ということで、第2次上海事変を考えてみると、国民党軍は8月13日、いきなり攻撃を仕かけてきたわけですから、まさに「侵略」です。
日本は正当な条約に基づいて上海に部隊を駐留させていたのです。居留地では平和的に商売を営む日本人が大勢いました。そんな日本人に対して中国側から一方的に軍事行動を仕かけてきたのですから、相手の「侵略」以外のなにものでもありません。それが第2次上海事件であり、支那事変のはじまりでした。